たが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を圓くして渠を仰いだが、何とも云はぬ。
『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた樣な聲を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顏に亂れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷《すばや》く其手を擦り拔けて卓子《テーブル》の彼方へ逃げた。
二人は小さい卓子《テーブル》を相隔てゝ向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮《あせ》るけれど、女は其度男と反對の方へ動く、妙に落着拂つた其顏が、着て居る職服《きもの》と見分けがつかぬ程眞白に見えて、明確《さだか》ならぬ顏立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の樣。其顏と柔かな肩の辷りが廓然《くつきり》と白い輪廓を作つて、仄暗い藥の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない、影でもなければ、幻でもない。若樹の櫻が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと搖れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る樣な女の肉體だけが見える。
何分經つたか記憶が無い。その間に渠の頭腦は、表面だけ益々|苛立《いらだ》つて來て、底の底の方が段々空虚になつて來る樣な氣分になつた。それでも一生懸命女を捉へようと悶躁《もが》いて居たが、身體はブルブル顫へて居て、左の手をかけた卓子の上の、硝子瓶が二つ三つ、相觸れてカチカチと音を立てて居た。
ガタリと扉が開いて、小野山が顏を出した。
『此處でしたか、何處へ行つたと思つたら。』
と、極りが惡さうにした顏に一寸眼を光らして、ヅカヅカ入つて來た。
『怎《どう》したんです。』と梅野へ。
『アッハハハ。』と、女は底拔な高い聲を出して笑つたが、モウ安心と云ふ樣に溜息を一つ吐いて、『野村さんが面白い事仰しやるもんですからね、私逃げて來たの。』
『何です、野村さん?』醫者は妙に笑つて野村を見た。野村は氣が拔けた樣に、石像の如く立つて、目には女を見た儘、身動《みじろぎ》もせぬ。
『また催眠術をかけて呉れるからツて仰しやるの。』と女は引取つた。『そしたら私の行きたい所は何處へでも伴れてつて見せるし、逢ひたい人には誰にでも逢はせて下さるんですツて。だけど私、過日《このあひだ》でモウ皆に笑はれて、懲々《こり/\》してるんですもの。ぢや施《か》けて下さいつて、欺《だま》して逃げて來たもんだから、野村さんに追驅けられたのよ』
『然《さう》うでしたか』
野村は、發作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に、此次には屹度ですよ、屹度|施《か》かけまよ。』と變に硬張《こはゞ》つた聲で云つて、物凄く「アッハハ。」と笑つたが、何時持つて來たとも知れぬ卓子《テーブル》の上の首卷と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して來たのであつた。
脈といふ脈を、アルコールが驅け※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、血の循環が沸《たぎ》り立つ程早い。さらでだに苛立勝《いらだちがち》の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる樣な大|時化《しけ》を喰つて、唯モウ無暗に神經が昂奮《たかぶ》つて居る。野村は頤を深く首卷に埋めて、何處といふ目的もなく街から街へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り歩いて居た。
女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤《いきどほ》つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました。酒を飮ますのが何だ。失敬だ、不埒だ。用も無いのに俺を探す。默つて自分の室に居れば可いぢやないか。默つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不圖したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と處を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且夫れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて來て、自分の計畫を全然打壞したのは醫者の小野山に違ひない。小野山が不埒だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。……
知らぬ獸《けもの》に邂逅《でつくわ》した山羊の樣な眼をして、女は卓子《テーブル》の彼方《むかう》に立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些《ちつ》とも見えなかつた。然うだ、吃驚《びつくり》したのだ。唯|吃驚《びつくり》したのだ。尤も俺も惡かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。餘り性急《せつかち》にやつたから惡い。それに今夜は俺が醉つて居た。醉つた上の惡戲と許り思つたのかも知れぬ。何にし
前へ
次へ
全20ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング