ほんと》ですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。
 渠は唯唸る樣な聲を出しただけで、チラと女の顏を見たつきり、凄じい勢ひで戸外《そと》へ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顏が例の烈しい痙攣《ひきつけ》を起して居る。少なからず醉つて居るので、吐く呼氣《いき》は酒臭い。
 戸外はモウ人顏も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面だけ凍りかかつて、夥しく歩き惡い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴に昂奮した調子で歩き出した。
「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて來て貸すと云つた! 本? 否俺は本など一册も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎《どう》でも可いさと口に出して呟いたが、何故《なぜ》那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》事云つたらうと再《ま》た考へる。
 渠は二時間の間此病院で過した。煙草を喫みたくなつた時、酒を飮みたくなつた時、若い女の華やいだ聲を聞きたくなつた時、渠は何日《いつ》でも此病院へ行く。調劑室にも、醫員の室にも、煙草が常に卓子の上に備へてある。渠が、横山――左の蟀谷《こめかみ》の上に二錢銅貨位な禿があつて、好んで新體詩の話などをする、二十五六のハイカラな調劑助手に強請《ねだ》つて、赤酒の一杯二杯を美味《うま》さうに飮んで居ると、屹度誰か醫者が來て、私室へ伴れて行つて酒を出す。七人の看護婦の中、青ざめた看護婦長一人を除いては、皆、美しくないまでも、若かつた。若くないまでも、少くとも若々しい態度《やうす》をして居た。人間の手や足を切斷したり、脇腹を切開したりするのを、平氣で手傳つて二の腕まで血だらけにして居る輩《やから》であるから、何れも皆男といふ者を怖れて居ない。怖れて居ない許りか、好んで敗けず劣らず無駄口を叩く。中にも梅野といふのは、一番美しくて、一番お轉婆で、そして一番ハイカラで、實際は二十二だといふけれど、打見には十八位にしか見えなかつた。野村は一日として此三つの慾望に餓ゑて居ない日は無いので、一日として此病院を訪れぬ日はなかつた。
 渠が先づ入るのは、玄關の直ぐ右の明るい調劑室であつた。此室に居る時は、平生と打つて變つて渠は常に元氣づいて
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