『それでなす、先方《あつち》ア着いてから、一緒に行つた様でなく、後から追駆けて来たで、当分東京さ置ぐからつて手紙寄越す筈にしたものす。』
『あの人《しと》だばさ。真《ほんと》に世話して呉《け》える人《しと》にや人《しと》だども。』
 此時、懐手してぶらりと裏口から出て来た源助の姿が、小屋の入口から見えたので、お八重は手招ぎしてそれを呼び入れた。源助はニタリ/\相好を崩して笑ひ乍ら、入口に立ち塞《はだか》つたが、
『まだ、日が暮れねえのに情夫《をとこ》の話ぢや、天井の鼠が笑ひますぜ。』
 お八重は手を挙げて其高声を制した。『あの、源助さん、今朝の話ア真実《ほんと》でごあんすよ。』源助は一寸真面目な顔をしたが、また直ぐに笑ひを含んで、『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、好《よ》し/\、此|老爺《おぢい》さんが引受けたら間違ツこはねえが、何だな、お定さんも謀叛の一味に加はつたな?』
『謀叛だど、まあ!』とお定は目を大きくした。
『だがねえお八重さん、お定さんもだ、まあ熟《よつ》く考へて見る事《こつ》たね。俺は奈何《どう》でも構はねえが、彼方へ行つてから後悔でもする様ぢや、貴女方《あんたがた》自分の事《こつ》たからね。汽車の中で乳飲みたくなつたと言つて、泣出されでもしちや、大変な事になるから喃《なあ》。』
『誰ア其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に……。』とお八重は肩を聳かした。
『まあさ。然う直ぐ怒《おこ》らねえでも可いさ。』と源助はまたしても笑つて、『一度東京へ行きや、もう恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》所にや一生帰つて来る気になりませんぜ。』
 お八重は「帰つて来なくつても可い。」と思つた。お定は、「帰つて来られぬ事があるものか。」と思つた。
 程なく四辺《あたり》がもう薄暗くなつて行くのに気が付いて、二人は其処を出た。此時まではお定は、まだ行くとも行かぬとも言はなかつたが、兎も角も明日|決然《しつかり》した返事をすると言つて置いて、も一人お末といふ娘にも勧めようかと言ふお八重の言葉には、お末の家が寡人《ひとすくな》だから勧めぬ方が可いと言ひ、此話は二人|限《きり》の事にすると堅く約束して別れた。そして、表道を歩くのが怎《どう》やら気が咎める様で、裏路伝ひに家へ帰つた。明日返事するとは言つたものの、お定はもう心の底では確然《ちやん》と行く事に決つてゐたので。
 家に帰ると、母は勝手に手ランプを点《つ》けて、夕餉の準備に急《せ》はしく立働いてゐた。お定は馬に乾秣《やた》を刻《き》つて塩水に掻廻して与《や》つて、一担ぎ水を汲んで来てから夕餉の膳に坐つたが、無暗に気がそは/\してゐて、麦八分の飯を二膳とは喰べなかつた。
 お定の家は、村でも兎に角食ふに困らぬ程の農家で、借財と云つては一文もなく、多くはないが田も畑も自分の所有《もの》、馬も青と栗毛と二頭飼つてゐた。両親はまだ四十前の働者《はたらきもの》、母は真《ほん》の好人物《おひとよし》で、吾児にさへも強い語《ことば》一つ掛けぬといふ性《たち》、父は又父で、村には珍らしく酒も左程|嗜《たしな》まず、定次郎の実直といへば白井様でも大事の用には特に選《え》り上げて使ふ位で、力自慢に若者《わかいもの》を怒らせるだけが悪い癖だと、老人達《としよりだち》が言つてゐた。祖父《ぢい》も祖母《ばあ》も四五年前に死んで、お定を頭に男児二人、家族といつては其丈で、長男の定吉は、年こそまだ十七であるけれども、身体から働振から、もう立派に一人《ひとり》前の若者である。
 お定は今年十九であつた。七八年も前までは、十九にもなつて独身《ひとりみ》でゐると、余《あま》され者だと言つて人に笑はれたものであるが、此頃では此村でも十五十六の嫁といふものは滅多になく、大抵は十八十九、隣家《となり》の松太郎の姉などは二十一になつて未だ何処にも縁づかずにゐる。お定は、打見には一歳《ひとつ》も二歳《ふたつ》も若く見える方で、背恰好の※[#「女+亭」、第3水準1−15−85]乎《すらり》としたさまは、農家の娘に珍らしい位、丸顔に黒味勝の眼が大きく、鼻は高くないが、笑窪が深い。美しい顔立《かほだて》ではないけれど、愛嬌に富んで、色が白く、漆の様な髪の生際《はえぎは》の揃つた具合に、得も言へぬ艶《なまめ》かしさが見える。稚い時から極く穏《おとな》しい性質で、人に抗《さから》ふといふ事が一度もなく、口惜《くやし》い時には物蔭に隠れて泣くぐらゐなもの、年頃になつてからは、村で一番老人達の気に入つてるのが此お定で、「お定ツ子は穏《おとな》しくて可《え》え喃《なあ》。」と言はれる度、今も昔も顔を染めては、「俺《
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