つた。まだ見た事のない夢を見てゐる様な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何処へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り、唯|※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼんやり》として了つて、別に街々の賑ひを仔細に見るでもなかつた。燦爛《さんらん》たる火光《あかり》、千万の物音を合せた様な轟々たる都の響。其火光がお定を溶かして了ひさうだ。其響がお定を押潰して了ひさうだ。お定は唯もう膝の上に載せた萌黄の風呂敷包を、生命よりも大事に抱いて、胸の動悸を聴いてゐた。周囲《あたり》を数限りなき美しい人立派な人が通る様だ。高い/\家もあつた様た。
 少し暗い所へ来て、ホツと息を吐いた時は、腕車が恰度本郷四丁目から左に曲つて、菊坂町に入つた所であつた。お定は一寸振返つてお八重を見た。
 軈《やが》て腕車が止つて、『山田理髪店』と看板を出した明るい家の前。源助に促されて硝子戸の中に入ると、目が眩《くるめ》く程明るくて、壁に列んだ幾面の大鏡、洋燈《ランプ》が幾つも幾つもあつて、白い物を着た職人が幾人も幾人もゐる。何《ど》れが実際の人で何れが鏡の中の人なやら、見分もつかぬうちに、また源助に促されて、其店の片隅から畳を布いた所に上つた。
 上つたは可《い》いが、何処に坐れば可いのか一寸|周章《まごつい》て了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は、
『東京は流石に暑い。腕車《くるま》の上で汗が出たから喃《なあ》。』と言つて、突然《いきなり》羽織を脱いで投げようとすると、三十六七の小作りな内儀《おかみ》さんらしい人がそれを受取つた。
『怎だ、俺の留守中何も変りはなかつたかえ?』
『別に。』
 源助は、長火鉢の彼方《むかう》へドツカと胡坐《あぐら》をかいて、
『さあ/\、お前さん達もお坐んなさい。さあ、ずつと此方《こつち》へ。』
『さあ何卒《どうぞ》。』と内儀さんも言つて、不思議相に二人を見た。二人は人形の様に其処に坐つた。お八重が叩頭《おじぎ》をしたので、お定も遅れじと真似した。源助は、
『お吉や、この娘さん達はな、そら俺がよく話した南部の村の、以前|非常《えら》い事世話になつた家の娘さん達でな。今度是非東京へ出て一二年奉公して見たいといふので、一緒に出て来た次第だがね。これは俺の嬶ですよ。』と二人を見る。
『まあ然うですか。些《ちよつ
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