る》めず、夜明近い鶏の頻りに啼立てるまで、厩の馬の鬣《たてがみ》を振ふ音や、ゴト/\破目板を蹴る音を聞きながら、これといふ話もなかつたけれど、丑之助を帰してやらなかつた。

     六

 其|翌朝《あくるあさ》は、グツスリと寝込んでゐる所をお八重に起されて、眠い眼を擦《こす》り/\、麦八分の冷飯に水を打懸《ぶつか》けて、形許《かたばか》り飯を済まし、起きたばかりの父母や弟に簡単な挨拶をして、村端れ近い権作の家の前へ来ると、方々から一人二人水汲の女共が、何れも眠相《ねむさう》な顔をして出て来た。荷馬車はもう準備《したく》が出来てゐて、権作は嬶《かかあ》に何やら口小言を言ひながら、脚の太い黒馬《あを》を曳き出して来て馬車に繋いでゐた。
『何処へ』と問ふ水汲共には『盛岡へ』と答へた。二人は荷馬車に布いた茣蓙《ござ》の上に、後向になつて行儀よく坐つた。傍には風呂敷包。馬車の上で髪を結つて行くといふので、お八重は別に櫛やら油やら懐中鏡やらの小さい包みを持つて来た。二人共木綿物ではあるが、新しい八丈|擬《まが》ひの縞の袷を着てゐた。
 軈《やが》て権作は、ピシヤリと黒馬《あを》の尻を叩いて、『ハイ/\』と言ひながら、自分も馬車に飛乗つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。
 二人は、まだ頭脳《あたま》の中が全然《すつかり》覚めきらぬ様で、呆然《ぼんやり》として、段々後方に遠ざかる村の方を見てゐたが、道路の両側はまだ左程古くない松並木、暁の冷さが爽かな松風に流れて、叢の虫の音は細い。一町許り来た時、村端れの水汲場の前に、白手拭を下げた男の姿が見えた。それは、毎朝其処に顔洗ひに来る藤田であつた。お定は膝の上に握つてゐた新しい※[#「巾+扮のつくり」、146−下−7]※[#「巾+兌」、146−下−7]《ハンケチ》を取るより早く、少し伸び上つてそれを振つた。藤田は立止つて凝然《じつ》と此方《こつち》を見てゐる様だつたが、下げてゐた手拭を上げたと思ふ間に、道路《みち》は少し曲つて、並木の松に隠れた。と、お定は今の素振を、お八重が何と見たかと気がついて、心羞《うらはづ》かしさと落胆《がつかり》した心地でお八重の顔を見ると、其美しい眼には涙が浮かんでゐた。それを見ると、お定の眼にも遽《には》かに涙が湧いて来た。
 盛岡へ五里を古い新しい松並木、何本あるか数へた人はない。二人が
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