了つた。
 手ランプを消した。
 一時間許り経つと、丑之助がもう帰準備《かへりじたく》をするので、これも今夜|限《きり》だと思ふと、お定は急に愛惜の情が喉に塞つて来て、熱い涙が滝の如く溢れた。別に丑之助に未練を残すでも何でもないが、唯もう悲しさが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に両手で力の限り男を抱擁《だきし》めた。男は暗《やみ》の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚《びつくり》して、目を円《まろ》くしてゐたが、やがてお定は忍音《しのびね》に歔欷《すすりなき》し始めた。
 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何しろ余り突然なので、唯目を円くするのみだ。
『怎したけな?』と囁いてみたが返事がなくて一層|歔欷《すすりな》く。と、平常《ひごろ》から此女の穏《おとな》しく優しかつたのが、俄かに可憐《いぢらし》くなつて来て、丑之助は再《また》、
『怎したけな、真《ほんと》に?』と繰返した。『俺ア何か悪い事でもしたげえ?』
 お定は男の胸に密接《ぴたり》と顔を推着《おつつ》けた儘で、強く頭を振つた。男はもう無性にお定が可憐《いぢらし》くなつて、
『だら怎したゞよ? 俺ア此頃|少許《すこし》急しくて四日許り来ねえでたのを、汝《うな》ア憤《おこ》つたのげえ?』
『嘘だ!』とお定は囁く。
『嘘でねえでヤ。俺ア真実《ほんと》に、汝《うな》アせえ承知して呉《け》えれば、夫婦《いつしよ》になりてえど思つてるのに。』
『嘘だ!』とお定はまた繰返して、一層強く男の胸に顔を埋めた。
 暫しは女の歔欷《すすりな》く声のみ聞えてゐたが、丑之助は、其漸く間断々々《とぎれとぎれ》になるのを待つて、
『汝《うな》ア頬片《ほつぺた》、何時来ても天鵞絨《ビロウド》みてえだな。十四五の娘子《めらしご》と寝る様だ。』と言つた。これは此若者が、殆んど来る毎にお定に言つてゆく讃辞《ことば》なので。
『十四五の娘子供《めらしやど》とも寝てるだべせア。』とお定は鼻をつまらせ乍ら言つた。男は、女の機嫌の稍《やや》直つたのを見て、
『嘘だあでヤ。俺ア、酒でも飲んだ時ア他《ほか》の女子《をなご》さも行《え》ぐども、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんた》に浮気ばしてねえでヤ。』
 お定は、胸の中で、此丑之助にだけは東京行の話をしても可か
前へ 次へ
全41ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング