『それでなす、先方《あつち》ア着いてから、一緒に行つた様でなく、後から追駆けて来たで、当分東京さ置ぐからつて手紙寄越す筈にしたものす。』
『あの人《しと》だばさ。真《ほんと》に世話して呉《け》える人《しと》にや人《しと》だども。』
此時、懐手してぶらりと裏口から出て来た源助の姿が、小屋の入口から見えたので、お八重は手招ぎしてそれを呼び入れた。源助はニタリ/\相好を崩して笑ひ乍ら、入口に立ち塞《はだか》つたが、
『まだ、日が暮れねえのに情夫《をとこ》の話ぢや、天井の鼠が笑ひますぜ。』
お八重は手を挙げて其高声を制した。『あの、源助さん、今朝の話ア真実《ほんと》でごあんすよ。』源助は一寸真面目な顔をしたが、また直ぐに笑ひを含んで、『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、好《よ》し/\、此|老爺《おぢい》さんが引受けたら間違ツこはねえが、何だな、お定さんも謀叛の一味に加はつたな?』
『謀叛だど、まあ!』とお定は目を大きくした。
『だがねえお八重さん、お定さんもだ、まあ熟《よつ》く考へて見る事《こつ》たね。俺は奈何《どう》でも構はねえが、彼方へ行つてから後悔でもする様ぢや、貴女方《あんたがた》自分の事《こつ》たからね。汽車の中で乳飲みたくなつたと言つて、泣出されでもしちや、大変な事になるから喃《なあ》。』
『誰ア其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に……。』とお八重は肩を聳かした。
『まあさ。然う直ぐ怒《おこ》らねえでも可いさ。』と源助はまたしても笑つて、『一度東京へ行きや、もう恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》所にや一生帰つて来る気になりませんぜ。』
お八重は「帰つて来なくつても可い。」と思つた。お定は、「帰つて来られぬ事があるものか。」と思つた。
程なく四辺《あたり》がもう薄暗くなつて行くのに気が付いて、二人は其処を出た。此時まではお定は、まだ行くとも行かぬとも言はなかつたが、兎も角も明日|決然《しつかり》した返事をすると言つて置いて、も一人お末といふ娘にも勧めようかと言ふお八重の言葉には、お末の家が寡人《ひとすくな》だから勧めぬ方が可いと言ひ、此話は二人|限《きり》の事にすると堅く約束して別れた。そして、表道を歩くのが怎《どう》やら気が咎
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