まぐさ》があつたので、隣家の松太郎の姉に誘はれたけれども、父爺《おやぢ》が行かなくても可いと言つた。仕様事なさに、一日門口へ立つて見たり、中へ入つて見たりしてゐたが、蛇の目傘をさした源助さんの姿が、時々|彼方此方《あちらこちら》に見えた。禿頭の忠太|爺《おぢ》と共に、お定の家の前を通つた事もあつた。其時、お定は何故といふ事もなく家の中へ隠れた。
一日降つた蕭《しめや》かな雨が、夕方近くなつて霽《あが》つた。と穢《きたな》らしい子供等が家々から出て来て、馬糞交りの泥濘《ぬかるみ》を、素足で捏《こ》ね返して、学校で習つた唱歌やら流行歌《はやりうた》やらを歌ひ乍ら、他愛もなく騒いでゐる。
お定は呆然《ぼんやり》と門口に立つて、見るともなく其《それ》を見てゐると、大工の家のお八重の小さな妹が駆けて来て、一寸来て呉れといふ姉の伝言《ことづて》を伝へた。
また曩日《いつか》の様に、今夜何処かに酒宴でもあるのかと考へて、お定は慎しやかに水潦《みづたまり》を避《よ》けながら、大工の家へ行つた。お八重は欣々《いそいそ》と迎へたが、何か四辺《あたり》を憚る様子で、密《そつ》と裏口へ伴れて出た。
『何処さ行《え》げや?』と大工の妻は炉辺から声をかけたが、お八重は後も振向かずに、
『裏さ。』と答へた儘。戸を開けると、鶏が三羽、こツこツといひながら中に入つた。
二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭《もた》れ乍ら、雨に湿つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密々《ひそひそ》語つてゐた。
お八重の話は、お定にとつて少しも思設けぬ事であつた。
『お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨夜《ゆべな》、東京の話を。』
『聞いたす。』と穏かに言つて、お八重の顔を打瞶《うちまも》つたが、何故か「東京」の語《ことば》一つだけで、胸が遽《には》かに動悸がして来る様な気がした。
稍《やや》あつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論思設けぬ相談ではあつたが、然し、盆過のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全然《まるで》縁のない話でもない。切《しき》りなしに騒ぎ出す胸に、両手を重ねながら、お定は大きい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて、言葉少なにお八重の言ふ所を聞いた。
お八重は、もう自分一人は確然《ちやん》と決心して
前へ
次へ
全41ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング