く》にある樣だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて來なけやならぬ樣に思へる。一時間前まで見て來て色々の場所、あれも/\と心では數へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乘や、勸工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠《かす》める。足下から鳩が飛んだりする。
  お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、一町も向うから電車が來ようものなら、もう足が動かぬ、漸《や》つとそれを遣《や》り過して、十間も行つてから思切つて向側に驅ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況《ま》して乘つた時の窮屈《きうくつ》さ。洋服着た男とでも肩が擦れ/\になると、譯もなく身體が縮んで了つて、些《ちよい》と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停《とま》るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乘降《のりおり》、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乘るよりは、山路を三里|素足《はだし
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