ころからノロ勘と綽名《あだな》された、十六の勘之助といふのが、源助さんに弟子入をした。それからといふものは、今迄近づき兼ねてゐた子供等まで、理髮店の店を遊場にして、暇な時にはよく太閤記や、義經や蒸汽船や加藤清正の譚を聞かして貰つたものだ。源助さんが居ない時には、ノロ勘が錢函から銅貨を盜み出して、子供等に餡麺麭を振舞ふ事もあつた。振舞ふといつても、其實半分以上はノロ勘自身の口に入るので。
 源助さんは村中での面白い人として、衆人《みんな》に調法がられたものである。春秋《はるあき》の彼岸《ひがん》にはお寺よりも此人の家の方が、餅を澤山貰ふといふ事で、其代り又、何處の婚禮にも葬式にも、此人の招《よ》ばれて行かぬ事はなかつた。源助さんは、啻《たゞ》に話巧者で愛想が好い許りでなく、葬式に行けば青や赤や金の紙で花を拵へて呉れるし、婚禮の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謠をやる、加之《のみならず》何事にも器用な人で、割烹の心得もあれば、植木|弄《いじ》りも好き、義太夫と接木が巧者で、或時は白井樣の子供衆のために大奉八枚張の大|紙鳶《だこ》を拵《こしら》へた事もあつた。其處此處の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲
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