隣が作右衞門店、萬荒物から酢醤油石油莨、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛もある。箸で斷《ちぎ》れぬ程堅い豆腐も賣る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてるけれども、毎晩|點火《とも》る譯ではない。
 お定がまだ少《わか》かつた頃は、此村に理髮店といふものが無かつた。村の人達が其頃、頭の始末を奈何《どう》してゐたものか、今になつて考へると、隨分不便な思をしたものであらう。それが、九歳か十歳の時、大地主の白井樣が盛岡から理髮師《とこや》を一人お呼びなさるといふ噂が恰も今度源助さんが四年振で來たといふ噂の如く、異樣な驚愕《おどろき》を以て村中に傳つた。間もなく、とある空地に梨箱の樣な小さい家が一軒建てられて、其家が漸々《やう/\》壁塗を濟ませた許りの處へ、三十恰好の、背の低い、色の黒い理髮師が遣つて來た。頗るの淡白者《きさくもの》で、上方辯の滑《なめら》かな、話巧者の、何日《いつ》見てもお愛想が好いところから、間もなく村中の人の氣に入つて了つた。それが即ち源助さんであつた。
 源助さんには、お内儀《かみ》さんもあれば息子《むすこ》もあるといふ事であつたが、來たのは自分一人。愈々開
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