。萬《よろづ》の知識の單純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村では村長樣とお醫者樣と、白井の若旦那の外冠る人がない。繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物《やはらかもの》で、角帶も立派、時計も立派、中にもお定の目を聳たしめたのは、づしりと重い總革の旅行鞄であつた。
 宿にしたのは、以前一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の區別なく其家を見舞つたので、奧の六疊間に三分心の洋燈《ランプ》は暗かつたが、入交《いりかは》り立交りるす人の數は少くなく、潮の樣な蟲の音も聞えぬ程、賑かな話聲が、十一時過ぐるまでも戸外に洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の總領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て來て、源助さんの話を低聲《こごゑ》に取次した。
 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服裝の立派なのが一際品格を上げて、擧動《ものごし》から話振から、昔より遙かに容體づいてゐた。隨つて、其昔「お前《めえ》」とか「其方《そご》」とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆「お前樣《めえさま》」と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて來たので、汽車の歸途《かへり》の路すがら、奈何《どう》しても通抜《とほりぬけ》が出來なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髮店を開いてゐて、熟練な職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程忙がしいといふ事であつた。
 此話が又、響を打つて直ぐに村中に傳はつた。
 理髮師といへば、餘り上等な職業でない事は村の人達も知つてゐる。然し東京の[#「東京の」に傍点]理髮師と云へば、怎《どう》やら少し意味が別なので、銀座通の寫眞でも見た事のある人は、早速源助さんの家の立派な事を想像した。
 翌日は、各々《めい/\》自分の家に訪ねて來るものと思つて、氣早の老人などは、花茣蓙《はなござ》を押入から出して爐邊に布いて、澁茶を一掴み隣家から貰つて來た。が、源助さんは其日朝から白井樣へ上つて、夕方まで出て來なかつた。
 其晩から、かの立派な鞄から出した、手拭やら半襟やらを持つて、源助さんは殆ど家毎に訪ねて歩いた。
 お定の家へ來たのは、三日目の晩で、晝には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態々後※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麥煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた。銀座通りの賑ひ、淺草の水族館、日比谷の公園、西郷の銅像、電車、自動車、宮樣のお葬式、話は皆想像もつかぬ事許りなので、聞く人は唯もう目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、夜も晝もなく渦卷く火炎に包まれた樣な、凄じい程な華やかさを漠然と頭腦《あたま》に描いて見るに過ぎなかつたが、淺草の觀音樣に鳩がゐると聞いた時、お定は其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》所にも鳥なぞがゐるか知らと、異樣に感じた。そして、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》所から此人はまあ、怎《どう》して此處まで來たのだらうと、源助さんの得意氣な顏を打|瞶《まも》つたのだ。それから源助さんは、東京は男にや職業が一寸見附り惡いけれど、女なら幾何《いくら》でも口がある。女中奉公しても月に賄附で四圓貰へるから、お定さんも一二年行つて見ないかと言つたが、お定は唯俯いて微笑《ほゝゑ》んだのみであつた。怎《どう》して私などが東京へ行かれよう、と胸の中で呟《つぶ》やいたのである。そして、今日隣家の松太郎といふ若者が、源助さんと一緒に東京に行きたいと言つた事を思出して、男ならばだけれども、と考へてゐた。

      三

 翌日は、例の樣に水を汲んで來てから、朝草刈に行かうとしてると、秋の雨がしと/\降り出して來た。厩《うまや》には未だ二日分許り秣《まぐさ》があつたので、隣家の松太郎の姉に誘はれたけれども、父爺《おやぢ》が行かなくても可《い》いと言つた。仕樣事なさに、一日門口へ立つて見たり、中へ入つて見たりしてゐたが、蛇の目傘をさした源助さんの姿が、時々彼方此方《あちこち》に見えた。禿頭の忠太爺と共に、お定の家の前を通つた事もあつた。其時、お定は何故といふ事もなく家の中へ隱れた。
 一日降つた肅《しめ》やかな雨が、夕方近くなつて霽《あが》つた。と穢《きたな》らしい子供等が家々から出て來て、馬糞交りの泥濘を、素足で捏《こ》ね返して、學校で習つた唱歌やら流行歌やらを歌ひ乍ら、他愛もなく騷いでゐる。
 お定は呆然《ぼんやり》と門口に立つて、見るともなく其を見てゐると、大工の家のお
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