んにや》もお八重さんさ行つて來たな?』
『然うだねえでヤ。』と言つたが、男は少し狼狽《うろた》へた。
『だら何時《いづ》逢つたす?』
『何時ツて、八時頃にせ。ホラ、あのお芳ツ子の許《とこ》の店でせえ。』
『嘘だす、此人《このしと》ア。』
『怎《どう》してせえ?』と益々|狼狽《うろた》へる。
『怎しても恁《か》うしても、今夜《こんにや》日《ひ》ヤ暮れツとがら、俺アお八重さんと許《ば》り歩いてだもの。』
『だつて。』と言つて、男はクスクス笑ひ出した。
『ホレ見らせえ!』と女は稍聲高く言つたが、別に怒つたでもない。
『明日《あした》汽車で行くだか?』
『權作|老爺《おやぢ》の荷馬車で行くで。』
『だら、朝早かべせえ。』と言つたが、『小遣錢《こづげえ》呉《け》えべがな? ドラ、手ランプ點《つ》けろでヤ。』
 お定が默つてゐたので、丑之助は自分で手探りに燐寸《マツチ》を擦つて手ランプに移すと、其處に脱捨てゝある襯衣《かくし》の衣嚢から財布を出して、一圓紙幣を一枚女の枕の下に入れた。女は手ランプを消して、
『餘計《よげえ》だす。』
『餘計な事ア無《ね》えせア。もつと有るものせえ。』
 お定は、平常《いつも》ならば恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》事を餘り快く思はぬのだが、常々添寢した男から東京行の錢別を貰つたと思ふと、何となく嬉しい。お八重には恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事が無からうなどゝ考へた。
 先刻《さつき》の蟋蟀《こほろぎ》が、まだ何處か室の隅ツこに居て、時々思出した樣に、哀れな音を立てゝゐた。此夜お定は、怎《どう》しても男を抱擁めた手を弛《ゆる》めず、夜明近い鷄の頻りに啼立てるまで、厩の馬の鬣を振ふ音や、ゴトゴト破目板を蹴る音を聞きながら、これといふ話もなかつたけれど、丑之助を歸してやらなかつた。

      六

 其翌朝は、グツスリ寢込んでゐる所をお八重に起されて、眠い眼を擦《こす》り/\、麥八分の冷飯に水を打懸けて、形許り飯を濟まし、起きたばかりの父母や弟に簡單な挨拶をして、村端れ近い權作の家の前へ來ると、方々から一人二人水汲の女共が、何れも眠相な眼をして出て來た。荷馬車はもう準備が出來てゐて、權作は嚊に何やら口小言を言ひながら、脚の太い黒馬《あを》を曳き出して來て馬車に繋いでゐた。
『何處へ』と問ふ水汲共には『盛岡へ』と答へた。二人は荷馬車に布いた茣蓙の上に、後向になつて行儀よく坐つた。傍には風呂敷包。馬車の上で髮を結つて行くといふので、お八重は別に櫛やら油やら懷中鏡やらの小さい包みを持つて來た。二人共木綿物ではあるが、新しい八丈|擬《まが》ひの縞の袷を着てゐた。
 軈て權作は、ピシャリと黒馬《あを》の尻を叩いて、『ハイハイ』と言ひながら、自分も場車に飛乘つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。
 二人は、まだ頭腦《あたま》の中が全然《すつかり》覺めきらぬ樣で、呆然《ぼんやり》として、段々後ろに遠ざかる村の方を見てゐたが、道路の兩側はまだ左程古くない松並木、曉の冷さが爽かな松風に流れて、叢の蟲の音は細い。一町許り來た時、村端れの水汲場の前に、白手拭を下げた男の姿が見えた。それは、毎朝其處に顏洗ひに來る藤田であつた。お定は膝の上に握つてゐた新しい※[#「巾+分」、182−上−8]※[#「巾+税のつくり」、182−上−8]《はんけち》を取るより早く、少し伸び上つてそれを振つた。藤田は立止つて凝然《じつ》と此方《こつち》を見てゐる樣だつたが、下げてゐた手拭を上げたと思ふ間に、道路は少し曲つて、並木の松に隱れた。と、お定は今の素振《そぶり》を、お八重が何と見たかと氣がついて、心羞《うらはづ》かしさと落膽《がつかり》した心地でお八重の顏を見ると、其美しい眼には涙が浮んでゐた。それを見ると、お定の眼にも遽かに涙が湧いて來た。
 盛岡へ五里を古い新しい松並木、何本あるか數へた人はない。二人が髮を結つて了ふまでに二里過ぎた。あとの三里は權作の無駄口と、二人が稚い時の追憶談《おもひでばなし》。
 
 理髮師《とこや》の源助さんは、四年振で突然村に來て、七日の間到る所に驩待《くわんたい》された。そして七日の間東京の繁華な話を繰返した。村の人達は異樣な印象を享けて一同多少づつ羨望の情を起した。もう四五日も居たなら、お八重お定と同じ志願を起す者が、三人も五人も出たかも知れぬ。源助さんは滿腹の得意を以て、東京見物に來たら必ず自分の家に寄れといふ言葉を人毎に殘して、七日目の午後に此村を辭した。好摩《かうま》のステーションから四十分、盛岡に着くと、約の如く松本といふ宿屋に投じた。
 不取敢《とりあへず》湯に入つてると、お八重お定が訪ねて來た。
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