、今私の思出に上る生《うみ》の母の顔が、もう真の面影ではなくて、かの夏草の中から怨めし気に私を見た、何処から来て何処へ行つたとも知れぬ、女乞食の顔と同じに見える様になつたのである。病める冷き胸を抱いて、人生の淋しさ、孤独の悲しさに遣瀬もない夕べ、切に恋しきは、文字を学ぶ悦びを知らなかつた以前である。今迄に学び得た知識それは無論、極く零砕なものではあるけれ共、私は其為に半生の心血を注ぎ尽した。其為に此病をも得た。而して遂に、私は果して何を教へられたであらう? 何を学んだであらう? 学んだとすれば、人は何事をも真に知り得ざるものだといふ、漠然たる恐怖唯一つ。
 ああ、八歳の年の三月三十日の夕! 其以後、先づ藤野さんが死んだ。路傍の草に倒れた女乞食を見た。父も死んだ。母は行方知れずになつた。高島先生も死んだ。幾人の友も死んだ。軈《やが》ては私も死ぬ。人は皆散り/″\である。離れ/″\である。所詮は皆一様に死ぬけれども、死んだとて同じ墓に眠れるでもない。大地の上の処々、僅か六尺に足らぬ穴に葬られて、それで言語も通はねば、顔も見ぬ。上には青草が生える許り。
 男と女が不用意の歓楽に耽つてゐる時、
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