いひつ》けられる。私は、葉鉄《ぶりき》で拵へた水差を持つて、机から机と廻つて歩く。机の両端には一つ/\硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑《とらふ》か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして、私が水を注いでやつた時、些《ちよつ》と叩頭《おじぎ》をするのは藤野さん一人であつた。
 気の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豊吉といふ児が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳か年長であつた。体も大きく、頭脳も発達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を挙げる時は大抵豊吉も手を挙げた。何しろ子供の時の二歳《ふたつ》違ひは、頭脳の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顕著に現はれるのは算術である。豊吉は算術が得意であつた。
 問題を出して置いて、先生は別の黒板の方へ廻つて行かれる。そして又帰つて来て、『出来た人は手を挙げて。』と竹の鞭を高く挙げられる。それが、少し難かしい問題であると、藤野さんは手を挙げながら、若くは手を挙げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に満干《さしひき》する微かな波をも見遁す
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