表紙の襤褸《ぼろぼろ》になつた孝経やら十八史略の端本《はほん》やらを持つて、茶話ながらに高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。
其頃父は三十五六、田舎には稀な程晩婚であつた所為《せゐ》でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなくて唯一粒種、剛《きつ》い言葉一つ懸けられずに育つた為めか背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ/\と痩せ細つてゐて、随分近所の子供等と一緒に、裸足《はだし》で戸外《そと》の遊戯もやるにかゝはらず、怎《どう》したものか顔が蒼白く、駆競《かけくら》でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。随つて、さうして遊んでゐながらも、時として密《こつそ》り一人で家に帰る事もあつたが、学校に上つてからも其性癖が変らず、楽書をしたり、木柵を潜《くぐ》り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言《むつつり》で、黒板に書いた字を読めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯《うつむ》いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで学校に入れて貰つたに拘らず、私は遂《つい》学科に興味を有てなかつた。加之《のみならず》時には昼休に家へ帰つた儘、人知れず裏の物置に隠れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何日《いつ》か私の頭を撫でながら、此児も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる様になれば可《い》いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。
私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。随つて、年中変らぬ稗勝《ひえがち》の飯に粘気がなく、時偶《ときたま》夜話に来る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦《い》つて、茶代りに出すといふ有様であつたから、私なども、年中つぎだらけな布の股引を穿いて、腰までしかない洗晒しの筒袖、同じ服装《なり》の子供等と共に裸足で歩く事は慣れたもので、頭髪《かみ》の延びた時は父が手づから剃つて呉れるのであつた。名は檜沢新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。
学校では、前にも言つた如く、些《ちつ》とも学科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りの級《クラス》のうち尻から二番で漸《やつ》と及第した。悪い事には、私の家の
前へ
次へ
全14ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング