頭から斜めに踵へかけて、生々しい紅の血が、三分程の幅に唯一筋!
其直ぐ後を、以前の若者と新家の旦那が駈け出した。旦那の又直ぐ後を、白地の浴衣を着た藤野さんの阿母《おかあ》さん、何かしら手に持つた儘、火の樣に熱した礫の道路を裸足《はだし》で……
其キッと堅く結んだ口を、私は、鬼ごツこに私を追駈けた藤野さんに似たと思つた。無論それは一秒時の何百分の一の短かい間。
これは、百度に近い炎天の、風さへ動かぬ[#「ぬ」は底本では「ね」]眞晝時に起つた光景だ。
私は、鮮かな一筋の血を見ると、忽ち胸が嘔氣《はきけ》を催す樣にムッとして、目が眩んだのだから、阿母さんの顏の見えたも不思議な位。夢中になつて其後から駈け出したが、醫者の門より二三軒手前の私の家へ飛び込むと、突然仕事をしてゐた父の膝に突伏した儘、氣を失つて了つたのださうな。
藤野さんは、恁《か》うして死んだのである。
も一つの記憶も、其頃の事、何方が先であつたか忘れたが、矢張夏の日の嚇灼たる午後の出來事と憶《おぼ》えてゐる。
村から一里許りのK停車場に通ふ荷馬車が、日に二度も[#「も」は底本では脱字]三度も、村端《むらはづれ》から眞直に北に開いた國道を塵塗れの黒馬の蹄に埃を立てて往返《ゆきかへ》りしてゐた。其日私共が五六人、其空荷馬車に乘せて貰つて、村端れから三四町の、水車へ行く野川の土橋《どばし》まで行つた。一行は皆腕白盛りの百姓子、中には腦天を照りつける日を怖れて大きい蕗の葉を帽子代りに頭に載せたのもあつた。
土橋を渡ると、兩側は若松の並木、其|路傍《みちばた》の夏草の中に、汚い服裝《なり》をした一人の女乞食が俯臥《うつぶせ》に寢てゐて、傍には、生れて滿一年と經《た》たぬ赤兒が、嗄《しやが》れた聲を絞つて泣きながら、草の中を這※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《はひまは》つてゐた。
それを見ると、馬車曳の定|老爺《おやぢ》が馬を止めて、『怎《どう》しただ?』と聲をかけた。私共は皆馬車から跳下《とびお》りた。
女乞食は、大儀相に草の中から顏を擡《もた》げたが、垢やら埃やらが流るる汗に斑《ふ》ちて、鼻のひしやげた醜い面に、謂ふべからざる疲勞と苦痛の色。左の眉の上に生々しい痍《きず》があつて一筋の血が頬から耳の下に傳つて、胸の中へ流れてゐる。
『馬に蹴られて、歩けねえだもん。』と、絶え入りさうに言つて、又|俯臥《うつぷ》した。
定老爺は、暫く凝《ぢつ》と此女乞食を見てゐたが、『村まで行つたら可《よ》がべえ。醫者樣もあるし巡査も居るだア。』と言捨てゝ、ガタ/\荷馬車を追つて行つて了つた。
私共は、ズラリと女の前に立披《たちはだか》つて見てゐた。稍あつてから、豐吉が傍に立つてゐる萬太郎といふのの肩を叩いて、『汚ねえ乞食《ほいど》だでア喃。首玉ア眞黒だ。』
草の中の赤兒が、怪訝《けげん》相《さう》な顏をして、四這《よつばひ》になつた儘私共を見た。女はビクとも動かぬ。
それを見た豐吉は、遽に元氣の好い聲を出して、『死んだどウ、此|乞食《ほいど》ア。』と言ひながら、一掴みの草を採つて女の上に投げた。『草かけて埋めてやるべえ。』
すると、皆も口々に言罵つて、豐吉のした通りに草を投げ始めた。私は一人遠くに離れてゐる樣な心地でそれを見てゐた。
と、赤兒が稍大きい聲で泣き出した。女は草から顏を擡《もた》げた。
『やあ、生きだ/\。また生きだでア。』と喚《わめ》きながら、皆は豐吉を先立てゝ村の方に遁げ出した。私は怎《どう》したものか足が動かなかつた。
醜い乞食の女は、流れた血を拭かうともせず、どんよりとした疲勞の眼を怨し氣に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、唯一人殘つた私の顏を凝《じつ》と瞶《みつ》めた。私も瞶めた。其、埃と汗に塗れた顏を、傾きかけた夏の日が、強烈な光を投げて憚りもなく照らした。頬に流れて頸から胸に落ちた一筋の血が、いと生々しく目を射つた。
私は、目が眩《くるめ》いて四邊《あたり》が暗くなる樣な氣がすると、忽ち、いふべからざる寒さが體中を戰《をのゝ》かせた。皆から三十間も遲れて、私も村の方に駈け出した。
然し私は、怎《どう》したものか駈けて行く子供等に追つかうとしなかつた。そして、二十間も駈けると、立止まつて後を振返つた。乞食の女は、二尺の夏草に隱れて見えぬ。更に豐吉等の方を見ると、もう乞食の事は忘れたのか、聲高に「吾は官軍」を歌つて駈けてゐた。
私は其時、妙な心地を抱いてトボ/\と歩き出した。小さい胸の中では、心にちらつく血の顏の幻を追ひながら、「先生は不具者《かたは》や乞食に惡口を利《き》いては可《いけ》ないと言つたのに、豐吉は那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》事をしたのだから、たとひ豐吉が一番で私が二番でも、私より豐吉の方が惡い人だ。」といふ樣な事を考へてゐたのであつた。
あはれ、其後の十幾年、私は村の小學校を最優等で卒へると、高島先生の厚い情によつて、盛岡市の高等小學校に學んだ。其處も首尾よく卒業して、縣立の師範學校に入つたが、其夏父は肺を病んで死んだ。間もなく、母は隣村の實家に歸つた。半年許りして、或事情の下に北海道に行つたとまで知つてゐるが、生きてゐるとも死んだとも、消息を受けた人もなければ、尋ねる的《あて》もない。
私は二十歳の年に高等師範に進んで、六箇月前にそれを卒へた。卒業試驗の少し前から出初めた惡性の咳が、日ましに募つて來て、此鎌倉の病院生活を始めてからも、既に四箇月餘りを過ぎた。
學窓の夕、病室の夜、言葉に文に友の情は沁み/″\と身に覺えた。然し私は、何故か多くの友の如く戀といふものを親しく味つた事がない。或友は、君は餘り内氣で、常に警戒をしすぎるからだと評した。或は然《さ》うかも知れぬ。或友は、朝から晩まで黄卷堆裡に沒頭して、全然社会に接せぬから機會がなかつたのだと言つた。或は然《さ》うかも知れぬ。又或友は、知識の奴隸になつて了つて、氷の如く冷酷な心になつたからだと冷笑した。或は實に然《さ》うなのかも知れぬ。
幾人の人を癒やし、幾人の人を殺した此寢臺の上、親み慣れた藥の香を吸うて、濤音《なみおと》遠き枕に、夢むともなく夢むるのは十幾年の昔である。ああ、藤野さん! 僅か八歳の年の半年餘の短い夢、無論戀とは言はぬ。言つたら人も笑はうし、自分でも悲しい。唯、木陰地《こさぢ》の濕氣《しめりけ》にも似て、日の目も知らぬ淋しき半生に、不圖天上の枝から落ちた一點の紅は其人である。紅と言へば、あゝ、かの八月の炎天の下、眞白き脛《はぎ》に流れた一筋の血! まざまざとそれを思出す毎に、何故といふ譯もなく私は又、かの夏草の中に倒れた女乞食を思出すのである。と、直ぐ又私は、行方知れぬ母の上に怖しい想像を移す。咯血の後、昏睡の前、言ふべからざる疲勞の夜の夢を、幾度となく繰返しては、今私の思出に上る生の母の顏が、もう眞の面影ではなくて、かの夏草の中から怨めし氣に私を見た、何處から來て何處へ行つたとも知れぬ、女乞食の顏と同じに見える樣になつたのである。病める冷たき胸を抱いて人生の淋しさ、孤獨の悲しさに遣瀬もない夕べ、切に戀しきは、文字を學ぶ悦びを知らなかつた以前である。今迄に學び得た知識それは無論、極く零碎なものではあるけれ共、私は其爲に半生の心血を注ぎ盡した、其爲に此病をも得た。而して遂に、私は何事をも眞に知り得ざるものだといふ、漠然たる恐怖唯一つ。
ああ、八歳の年の三月三十日の夕! 其以後、先づ藤野さんが死んだ。路傍の草に倒れた女乞食を見た。父も死んだ。母は行方知れずになつた。高島先生も死んだ。幾人の友も死んだ。軈ては私も死ぬ。人は皆散り/″\である。離れ/″\である。所詮は皆一樣に死ぬけれども、死んだとて同じ墓に眠れるでもない。大地の上の處々、僅かに六尺に足らぬ穴に葬られて、それで言語も通はねば、顏を見ぬ。上には青草が生える許り。
男と女が不用意の歡樂に耽つてゐる時、其不用意の間から子が出來る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。其偶然が、或る永劫に亘る必然の一連鎖だと考へれば、猶痛ましく、猶悲しい。生れなければならぬものなら、生れても仕方がない。一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなからうか※[#疑問感嘆符、1−8−77]
去年の夏、久し振りで故郷を省した時、栗の古樹の下の父が墓は、幾年の落葉に埋れてゐた。清光童女と記した藤野さんの小さい墓碑は、字が見えぬ程風雨に侵蝕されて、萱草の中に隱れてゐた。
立派な新築の小學校が、昔草原であつた、村の背後の野川の岸に立つてゐた。
變らぬものは水車の杵の數許り。
十七の歳、お蒼前《さうぜん》樣の祭禮《まつり》に馬から落ちて、右の脚を折り左の眼を潰した豐吉は、村役場の小使になつてゐて、私が訪ねて行つた時は、第一期地租附加税の未納督促状を、額の汗を拭き/\謄寫版で刷《す》つてゐた。
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2003年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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