二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛《ふえ》を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭《よ》り掛《かゝ》つた。

      三

 吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》切懸《きつかけ》だつたんだもの。」と心で辯疏《いひわけ》して見ても、怎《どう》やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ/\顏を見られるので、仄《ほんの》りと上氣してゐた。
 北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香《いきれ》が風と共に入つて來る。
 程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある――それが川崎の小川家なのだ。
 首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹《シスタア》が出てますよ。』
『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。
 靜子は妹共と一緒に田の中の畦道《あぜみち》に立つて、手巾《ハンカチ》を振つてゐる。妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。智惠子は無性に心が騷いだ。
 帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂|近代的婦人《モダーンウーマン》も案外|初心《うぶ》だ!』と思つたかも知れない。
 その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを紛《まぎ》らかさうとして、何か話を始め樣としたが、兎角、言葉が喉に塞《つま》る。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》筈はないと自分で制しながらも、斷々《きれ/″\》に、信吾が此女を莫迦《ばか》に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸《きつかけ》に、
『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。
『三日に、あの歸らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不圖思ひついた事がある樣に、
『貴女は盛岡の中學に圖畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。
『貴方《あなた》はあの、あの方と同じ學校を……?』
『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と鷹揚《おうやう》に頷《うなづ》いて、『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ爲《な》さらない樣ですが。』と、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ被行《いらつしや》るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。
『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、其家《そこ》へ參りますので……渡邊さんの妹|樣《さん》と私と、矢張り同じ級《クラス》で御座いまして。』
『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『あの、久子さんと被仰《おつしや》います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア眞箇《ほんと》に!』と言ひ乍ら、智惠子は忽ち或る不安に襲はれた。靜子の事が心に浮んだので。


   第七

      一

 宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
 休暇になつてからの學校ほど伽藍堂《がらんどう》[#「伽藍堂」は底本では「伽籃堂」]に寂しいものはない。建物が大きいのと平生耳を聾する
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