水準2−94−57]《そんな》に! 誰だつて平常《ふだん》には……』と慰め顏に言つて、
『貴女の許《とこ》は、これからまた賑かね。』
 其れはほんの、うつかりして言つたのだが、智惠子の眼は實際羨ましさうであつた。
『あら、だから貴女も毎日|被來《いらつしや》いよ。これからお休みなんですもの。』
『有難う。』と言つて、『私もうお別れするわ。何卒皆樣に宜しく!』
『一寸。』とその袂を捉へて、『可《い》いわよ智惠子さん、も少し。』
『だつて。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の樣に若々しく輝いた。
『構はないぢやありませんか、智惠子さん。家へ被來《いらつしや》いな又!』
『この次に。』と智惠子は沈着《おちつ》いた聲で言つて、『貴女も早くお歸りなすつたが可いわ。お客樣が被來《いらし》つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ樣に。
『あら、私のお客樣ぢやなくつてよ。』と、靜子は少し顏を染めた。心では、吉野が來た爲に急いで歸つたと思はれるのが厭だつたので。
 それで、智惠子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、靜子は鋼線《はりがね》の欄に靠《もた》れて見送つてゐた。
 智惠子は考へ深い眼を足の爪先に落して、歸路を急いだが、其心にあるのは、例の樣に、今日一日を空《むだ》に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張靜子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで來た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。
 で、家に入るや否や、お利代に泣き附いて何か強請《ねだ》つてゐる五歳の新坊を、矢庭に兩手で高く差上げて、
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、何《ど》うしたんですよう。』と手荒く擽《くすぐ》つたものだ。
 新坊は、常にない智惠子の此擧動に喫驚《びつくり》して、泣くのは礑《はた》と止めて不安相に大きく目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。

   其六

      一

 靜子の縁談は、最初、隨分性急に申込んで來て、兎に角も信吾が歸つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた樣な形勢になつてゐた。
 結句それが、靜子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何處が惡いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ喧《やかま》しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性《たち》だから、人手の多い家庭ではあるが、靜子は矢張一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が歸つてからというふもの、靜子はクヨ/\物を思ふ心の暇もなかつた。
 一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の勘解由《かげゆ》はもう六十の阪を越して體も弱つてゐるが、小心な、一時間も空《むだ》には過されぬと言つた性《たち》なので、小作に任せぬ家の周圍の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との仲が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然《さながら》他人の樣に疎々《うと/\》しい。一家顏を合せるのは食事の時だけなのだ。
 それに父の信之は、村方の肝煎《きもいり》から諸附合、家にゐることとては夜だけなのだ。從つて、癇癪持のお柳が一家の權を握つて、其一|顰《ぴん》一|笑《せう》が家の中を明るくし又暗くする。見やう見まねで靜子の二人の妹――十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床にゐるお千世などを輕蔑する。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》間に立つてゐる温なしい靜子には、それ相應に氣苦勞の絶えることがない。實際、信吾でも歸つて色々な話をしてくれたり、來客でもなければ、何の樂みもないのだ。尤も、靜子は譬へ甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る樣な氣の強い女ではないのだが。
 畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、暢氣《のんき》な身上なのだ。
 言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず離室《はなれ》の八疊間を吉野の室に充てゝ、自分は母屋《おもや》の奧座敷
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