受けて、室一杯に莨の煙が蒸した。
 信吾が入つて來た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態《ぶざま》に頬杖をついて熱心に喋《しやべ》つてゐた。
 山内謙三は、チョコナンと人形の樣に坐つて、時々死んだ樣に力のない咳《せき》をし乍ら、狡《ずる》さうな眼を輝かして温《おと》なしく聞いてゐる。萎《な》えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬の大幅の兵子帶を、小さい體に幾※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りも捲いた、狹い額には汗が滲んでゐる。
 二人共、この春徴兵檢査を受けたのだが、五尺足らずの山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何處か擧動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が削《こ》けて、漆黒な髮を態とモヂャ/\長くしてるのと、度の弱い鐵縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。
『……然《さ》うぢやないか、山内さん。俺はあの時、奈何《どう》してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》偉《えら》い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寢てゝもバイロンの顏が……』と景氣づいて喋《しやべ》つてゐた昌作は、信吾の顏を見ると神經的に太い眉毛を動かして、『實に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭《いや》な顏をして、口を噤んだ。
 信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて來て、無造作に片膝を附く。と見ると山内は喰かけの麥煎餅の遣場に困つた樣に臆病らしくモヂ/\して、顏を赧めて頭を下げた。
『貴方は山内さんですね?』と信吾は鷹揚に見下す。
『ハ。』と又頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視《ぬす》む。
『何です、昌作さん? 大分氣焔の樣だね。バイロンが怎《ど》うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ/\して言ふ。
『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。
『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴方もバイロンの崇拜者で?』と山内を見る。
『ハ、否《いゝえ》。』と喉《のど》が塞《つま》つた樣に言つて、山内は其|狡《ずる》さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髭を捻つてゐる信吾の顏をちらと見た。
『然《さ》うですか。だが何だね、バイロンは最《も》う古いんでさ。あんなのは今ぢや最う古典《クラシック》になつてるんで、彼國《むかう》でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雜で稚氣があつて、獨《ひとり》で感激してると言つた樣な詩なんでさ。新時代の青年が那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》古いものを崇拜してちや爲樣が無いね。』
『眞理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜《もぐ》つた樣にザラザラした聲を少し顫はして、昌作は倦怠相《けだるさう》に胡座《あぐら》をかく。
『ハッハヽヽ。』と、信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何《ど》れ/\讀んだの?』
 昌作の太い眉毛が、痙攣《ひきつ》ける樣にピリヽと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。
『讀まなくちや爲樣が無い!』と嘲る樣に對手の顏を見て、
『讀まなくちや崇拜もない。何處を崇拜するんです?』
と揶揄《からか》ふ樣な調子になる。
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。『富江さんが來たよ。』
 昌作はジロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顏に出して、自暴《やけ》に麥煎餅を頬張つた。
 次の間にはお柳が不平相な顏をして立つてゐて、信吾の顏を見るや否や、『何だねえお前、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》奴等の對手になつてさ! 九月になれや何處かの學校へ代用教員に遣るつて阿父樣が然《さ》う言つてるんだから、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]|愚物《ばか》にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物《ばか》になるぢやないか!』と、險のある眼を一層激しくして譴《たしな》める樣に言つた。
 彼方の室からは子供らの笑聲に交つて、富江の躁《はしや》いだ聲が響いた。

   其四

      一

 遠くから見ただけの人は、智惠子をツンと取濟した、愛相のない、大理石の像の樣に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その滑《なめら》かな美しい肌の下に、ぱつちり[#「ぱつちり」に傍点]とした黒味勝の眼の底の、温かい心を感ぜずには居られぬ。
 同情の深い智惠子は、宿の子供――十歳になる梅ちやんと五歳の新坊――が、もう七月になつたのに垢染みた袷を着て暑がつてるのを、例《いつ》もの事ながら見るに見兼ねた。今日は幸ひ土曜日なので、授業が濟むと直
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