眼を足の爪先に落して、帰路《かへりぢ》を急いだが、其心にあるのは、例《いつも》の様に、今日一日を空《むだ》に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張、静子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで来た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。
で、家に入るや否や、お利代に泣付いて何か強請《ねだ》つてゐる五歳《いつつ》の新坊を、矢庭に両手で高く差上げて、
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、奈何《どう》したんですよウ。』
と手荒く擽《くすぐ》つたものだ。
新坊は、常にない智恵子の此挙動に喫驚《びつくり》して、泣くのは礑《はた》と止めて不安相に大《おほき》く眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
(六)の一
静子の縁談は、最初、随分|性急《せつかち》に申込んで来て、兎も角も信吾が帰つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎《ど》うしたのか其儘《そのまま》になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた様な形勢《かたち》になつてゐた。
結局それが、静子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何処が悪いでなくて、兎角|優《すぐ》れぬ勝の、口小言のみ喧《やかま》しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性《たち》だから、人手の多い家庭《うち》ではあるが、静子は矢張日一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が帰つてからといふもの、静子はクヨ/\物を思ふ心の暇もなかつた。
一体この家庭《うち》には妙な空気が籠つてゐる。隠居の勘解由《かげゆ》はモウ六十の坂を越して体も弱つてゐるが、小心な、一時間も空《むだ》には過されぬと言つた性《たち》なので、小作に任せぬ家の周囲《まはり》の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮《さしづ》して、朝から晩まで戸外《そと》に居るが、その後妻のお兼とお柳との関係《なか》が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然《さながら》他人の様に疎々《うとうと》しい。一家顔を合せるのは食事の時だけなのだ。
それに父の信之は、村方の肝煎《きもいり》から諸交際《しよつきあひ》、家《うち》にゐることとては夜だけなのだ。従つて、癇癪持のお柳が一家の権を握つて、其|一顰《いちびん》一笑《いつせう》が家の中を明るくし又暗くする。見よう見まねで、静子の二人の妹――十三の春子に十一の芳子、まだ七歳《ななつ》にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中|病床《とこ》についてゐるお千世《ちせ》などを軽蔑する。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》間《なか》に立つてゐる温和《おとな》しい静子には、それ相応に気苦労の絶えることがない。実際、信吾でも帰つて色々な話をしてくれたり、来客でもなければ、何の楽みもないのだ。尤も、静子は譬へ甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る様な気の強い女ではないのだが。
画家の吉野満太郎が来たのは、又しても静子に一つの張合を増した。吉野の、何処か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中《うちじゆう》の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは随分親密な間柄で、(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の様に思つてるので)この春は一緒に畿内《きない》の方へ旅もした。今度はまた信吾の勧めで一夏を友の家に過す積りの定《きま》つた職業《しごと》とてもない、暢気《のんき》な身上なのだ。
言ふまでもなく信吾は、この遠来の友を迎へて喜んだ。それで不取敢《とりあへず》離室《はなれ》の八畳間を吉野の室《へや》に充てて、自分は母屋の奥座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手伝もなく主《おも》に静子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。
それ許りではない、静子にはモ一つ吉野に対して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは気が付いたので。吉野は顔容《かほかたち》些《ちつ》とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎《ど》うやら、死んだ浩一――静子の許嫁――を思出させた。
生憎《あいにく》と、吉野の来た翌日から、雨が続いた。それで、客も来ず、出懸ける訳にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分《だいぶ》退屈をしたが、お蔭で小川の家庭《うち》の様子などが解つた。昌作も鮎釣《あゆかけ》にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、画の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生《ふだん》飢ゑてる様な話が多いので、モウ早速吉野に敬服して了つた。
降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて
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