『ハツハヽヽ。仏蘭西の有名な画家だ。』
『然《さ》う!』と言ひは言つたが、日本のモロウと云ふ意味は無論静子に解りツコはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》方なら何故其後お出しにならないでせう?』
『然うさ、マア自重してるんだらう。彼奴《あいつ》が今度画いたら屹度満都の士女を驚かせる! 俺には近頃色ンな友人が出来たが、吉野君なんか其《その》中《うち》でもマア話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聴する様な調子で言ふ。
『姉様《ねえさん》、姉様。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がドタバタ駆けて来た。
『何ですねえ、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に駆けて!』
『でも、』と不平相な顔をして、『日向先生が被来《いらしつ》たんだもの!』
『おや!』と静子は兄の顔を見た。先程障子に映つた鳥影を思出したので。
(五)の三
二三日経てば小学校も休暇になる。平生《へいぜい》宿直室に寝泊《ねとまり》して居る校長の進藤は、モウ師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた体操と地理歴史教授法の夏期講習会に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は準訓導の森川が引受ける事になつて、これは土地の者の斎藤といふ年老《としと》つた首座教員と智恵子と富江の三人は、それ/″\村内《むらうち》に受持を定めて、兎角乱れ易い休暇中の児童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家《うち》へは帰らないので。智恵子にも帰るべき家が無かつた。無い訳ではない、兄夫婦は青森にゐるけれど、智恵子にはそれが自分の家の様な気がしない。よしや帰つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親い友から、何処かの温泉場にでも共同生活をして楽しき夏を暮さうではないかと言つて来たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に理由《わけ》もなくそれが忍びなかつた。結局智恵子は、八月二日に大沢の温泉で開かれる筈の師範時代の同級会に出席する外には、何処にも行かぬことに決めた。
それで智恵子は、誰しも休暇前に一度やる様に、八月|一月《ひとつき》に自分の為すべき事の予定を立てたものだ。そのうちには、色々の事に遮られて何日《いつ》とはなく中絶してゐた英語の独修を続ける事や、最も所好《すき》な歴史を繰返して読む事や、色々あつたが、信吾の持つて帰つた書《ほん》を可成《なるべく》沢山借りて読まうといふのも其《その》一《ひとつ》であつた。
今日は折柄の日曜日、読了へたのを返して何か別の書《ほん》を借りようと思つて、まだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。
直ぐ帰る筈だつたのが無理に引留められて、昼餐《ひるめし》も御馳走になつた。午後はまた余り暑いといふので、到頭四時頃になつて、それでも留めるのを漸くに暇乞して出た。田舎の素封家《ものもち》などにはよくある事で、何も珍しい事のない単調な家庭では、腹立しくなるまで無理に客を引き留める、客を待遇《もてな》さうとするよりは、寧ろそれによつて自分らの無聊《ぶれう》を慰めようとする。
平生《いつも》の例で静子が送つて出た。糊も萎《な》えた大形の浴衣《ゆかた》にメリンスの幅狭い平常帯《ふだんおび》、素足に庭下駄を突掛けた無雑作な扮装《なり》で、己が女傘《かさ》は畳んで、智恵子と肩も摩れ/\に睦しげに列んだ。智恵子の方も平常着ではあるが、袴を穿いてゐる。何時しか二人はモウ鶴飼橋の上に立つた。
此処は村での景色を一処《ひとところ》に聚《あつ》めた。北から流れて来る北上川が、観音下の崖に突当つて西に折れて、透徹る水が浅瀬に跳つて此吊橋の下を流れる。五六町行つて、川はまた南に曲つた。この橋に立てば、川上に姫神山、川下に岩手山、月は東の山にのぼり、日は西の峰に落つる。折柄の傾いた赤い日が宙に浮んだ此橋の影を、虹の影の如く川上の瀬に横たへて。
南岸《みなみぎし》は崖になつてゐるが、北の岸は低く河原になつて、楊柳《やなぎ》が密生してゐる。水近い礫《こいし》の間には可憐《いたいけ》な撫子《なでしこ》が処々に咲いた。
二人は鋼線《はりがね》を太い繩にした欄干に靠《もた》れて西日を背に享け乍ら、涼しい川風に袂を嬲《なぶ》らせて。
『ソーラ、彼《あれ》は屹度《きつと》昌作さんよ。』と、静子は今しも川上の瀬の中に立つてゐる一人の人を指さした。鮎を釣《か》けてゐるのであらう、編笠を冠つた背の高い男が、腰まで水に浸《つか》つて頻りに竿を動かしてゐる。種鮎《たねあゆ》か、それとも釣《かか》つたのか、ヒラリと銀色の鰭《うろこ》が波間に躍つた。
『だつて、昌作さんが那※[#「
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