でゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、眤と洋燈の火を睇《みつ》めて、時々気が付いた様に長い睫毛を瞬《しばた》いてゐた。隣室では新坊が目を覚まして何かむづかつてゐたが、智恵子にはそれも聞こえぬらしかつた。
智恵子の心は平生《いつ》になく混乱《こんがらが》つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを怎《どう》やら恁《か》うやら切抜けて来た心根を思ふと、実に同情に堪へない、今は加藤医院になつてる家《うち》、あの家が以前《もと》お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の浜野屋の女主人《をんなあるじ》として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼様《ああ》して寝てゐる心は怎うであらう! 人間《ひと》の一生の悲痛《いたましさ》が、時あつて智恵子の心を脅かす。……然し、この悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福《さいはひ》が湧いて来た! 智恵子は、神の御心に委ねた身ながらに、独《ひとり》ぼツちの寂しさを感ぜぬ訳にいかなかつた。
行末|怎《ど》うなるのか! といふ真摯《まじめ》な考への横合から、富江の躁《はしや》いだ笑声が響く。ツと、信吾の生白い顔が脳《あたま》に浮ぶ、――智恵子は厳粛《おごそか》な顔をして、屹と自分を譴《たしな》める様に唇を噛んだ。
「男は浅猿《あさま》しいものだ!」
と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を読んだ頃が思出された。亡母《はは》の事が思出された。東京にゐた頃が思出された。
遂に、那《あ》の頃のお友達は今怎うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢《はか》なく寂しく頼りなく張合のない、孤独の状態《ありさま》を、白地《あからさま》に見せつけられた様な気がして、智恵子は無性に泣きたくなつた。矢庭に両手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……
佗しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。
(五)の一
何日しか七月も下旬《すゑ》になつた。
かの加留多会の翌日《あくるひ》、信吾は初めて智恵子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの翻訳一二冊に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの、評論の載つてゐる雑誌を態々《わざわざ》持つて行つて貸して、智恵子からはルナンの耶蘇伝の翻訳を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智恵子を訪ねた。
信吾は智恵子に対して殊更に尊敬の態度を採つた。時としては、モウ幾年もの親い友達の様な口も利くが、概して二人の間に交換される会話は、這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生《ライフ》とか信仰とか創作とかいふ語《ことば》が多い。信吾は好んで其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》問題を担ぎ出し、対手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲学上の議論までする。心して聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる智識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事を調子よく喋る時は、血の多い人のする様に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した様子をする。
『僕は不思議ですねえ。恁《か》うして貴女と話してると、何だか自然に真摯《まじめ》になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁《か》う不安があつて、言はうと思ふことも遂《つい》人の前では言へなかつたりする様になつてゐたんですが……実に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否《いや》、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は真摯な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁《か》うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演《や》りたくなつて来て、遂《つい》心にない事まで言つて了ひます。』
智恵子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑を心配せぬ訳にいかなかつた。狭い村だけに少しの事も意味あり気に囃《はや》し立てるが常である。万一其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事があつては誠に心外の至りであると智恵子は思つた。それで可成《なるべく》寡言《くちすくな》に、隙《すき》のない様に待遇《あしら》つてはゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍
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