貴様らの知つた事か。』
 そして、乱暴に静子を蹴る、静子は又ドタリと倒れて、先よりも高くワツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて来た。『何だ? 夜更《よふけ》まで歩いて来て信吾は又何を其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に騒ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は再静子を蹴る。
『何をするツ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴様らこそ。』と、信吾はモウ夢中に咆《たけ》り立つて、突然《いきなり》志郎と昌作を薙倒《なぎたふ》す。
『コラツ。』と父も声を励して、信吾の肩を攫《つか》んだ。『何莫迦をするのだ! 静は那方《あつち》へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を払つて手負猪《ておひじし》の様な勢ひで昌作に組みつく。
『貴様、何故俺を抑へた※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』
『兄様!』
『信吾ツ!』
 ドタバタと騒ぐ其音を聞いて、別室の媒介者《なかうど》も離室《はなれ》の吉野も馳けつけた。帯せぬ寝巻の前を押へて母のお柳も来る。
『畜生! 畜生!』と、信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

     (十二)

 智恵子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から帰つてから、夜一夜苦み明した。お利代が寝ずに看護してくれて、腹を擦《さす》つたり、温めたタヲルで罨法《あんぱふ》を施《や》つたりした。トロ/\と交睫《まどろ》むと、すぐ烈しい便気の塞迫と腹痛に目が覚める。翌朝《あくるあさ》の四時までに、都合十三回も便所《はばかり》に立つた。が、別に通じがあるのではない。
 夜が清々《すがすが》と明放れた頃には、智恵子はモウ一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外《そと》にある。お利代が医師《いしや》に駆付《かけつ》けた後、智恵子は怺《こら》へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を伝つて危気《あぶなげ》に下駄を穿《つつ》かけたが、帰つて来てそれを脱ぐと、モウ立つてる勢《せい》がなかつた。で、台所の板敷を辛《やつ》と這つて来たが、室に入ると、布団の裾に倒れて了つた。抉《ゑぐ》られる様に腹が痛む。小供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓側の机の上にはまだ洋燈が朦然《ぼんやり》点《とも》つてゐた。
 智恵子は堅く目を瞑《つぶ》つて、幽かに唸りながら、不図、今し方|戸外《そと》へ出た時まだ日出前の水の様な朝光《あさかげ》が、快く流れてゐた事を思出した。
『モウ夜が明けた。』
と覚束《おぼつか》なく考へると、自分は何日《いつ》からとも知れず、長い/\間|恁《か》うして苦んでゐた様な気がする。程経てから前夜の事が思出された。それも然し、ズツト/\以前《まへ》の事の様だ。
「今日アノ方が来て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、モウ夜が明けたのだもの!…………。スルト今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧《かしま》しく雀が鳴く。智恵子はそれを遙《ずつ》と遠いところの事の様に聞くともなく聞いた。
『先生! 先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不図気がつくと、自分は其処で少し交睫《まどろ》みかけたらしい。お利代は加藤医師を伴れて来て、心配気な顔をして起してゐる。
『先生、まア恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》所に寝て、お医師様《いしやさん》が被来《いらつしや》いましたよ。』
『マア済みません。』
 然う言つてお利代に手伝はれ乍ら臥床《とこ》の上に寝せられた。
 室には夜ツぴて点けておいた洋燈の油煙やら病人の臭気《にほひ》やらがムツと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髪乱れ、眼|凹《くぼ》み、皮膚《はだ》の沢《つや》なく弛《たる》んだ智恵子の顔が、モウ一週間も其余も病んでゐたものの様に見えた。
 加藤は先づ概略《あらまし》の病状を訊いた。智恵子は痛みを怺へて問ふがまゝに答《こたへ》る。
『不可《いけ》ませんナア!』
と医師は言つた。そして診察した。
 脈も体温も少し高かつた。舌は荒れて、眼瞼《がんけん》が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の辺を押す。
『痛みます。』と苦気《くるしげ》な声。
『此処は?』
『其処も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帯を軽く擦《さす》りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と、智恵子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲哀《かなしみ》が湧いた。
 智恵子の病気は赤痢――然も稍《やや》烈しい、チフス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には担荷に乗せられて、隔離病舎に収容された。お利代の家の門口には「交通遮断」の札が貼られ
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