に征服される様に感じてゐる。それから脱れ様として恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を言ふのだ。『偽善です! 人が善といふ名の付く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の満足を得る為、畢竟《つまり》自分に甘える為、も一つは他《ひと》に甘える為です。』
『貴方は――』
と言ふより早く、智恵子の手は突然《いきなり》男の肩に捉つた。強烈《はげし》い感動が、女の全身に溢れた。強く/\其顔を男の二の腕に摩《こす》り付けて、
『貴方は……貴方は……』
と言ひ乍ら、火の様な熱い涙が滝の如く、男の肌に透る。
吉野は礑《はた》と足を留《とど》めて、佶《きつ》と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。
『ワア――』と、驚いた様に新坊が泣く。
はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智恵子は、モ一度、
『貴方は!』
と迸《ほとば》しる様に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。
『先生!』と、五六間|前方《さき》から女児等《こどもら》が呼ぶ。
『行きませう!』と男は促した。
『ハ。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態《さま》で、顔は男の体から離しともなく、二足三足、足は男に縺《もつ》れる。
『日向|様《さん》!』と男は足を留《と》めた。
『お許し下さい!』と絶入る様。
『僕は東京へ帰りませう!』
と言ふ目は眤と暗い処を見てゐる。
『……何故《なぜ》で御座います?』
『……余《あんま》り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『帰りませう! 其方が可い。』
『遣りません!』と智恵子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。
『あゝ――』と吉野は唸る様に言つた。
『お、お解りに、なりますまい、私のこ、心が……。』
『日向様!』と、男の声も烈しく顫へた。『其言葉を、僕は、聞きたくなかつた!』
矢庭に二つの顔が相触れた。熟した麦の香の漂ふ夜路に、熱《あたた》かい接吻《きす》の音が幽かに三度《みたび》四度《よたび》鳴つた。
(九)の七
其夜、母に呼ばれて母屋《おもや》へ行つた静子が、用を済まして再び庭に出て来た時は、モウ吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔《ほとり》、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張見えなかつた。
客は九時過になつて帰つた。父の信之は酔倒《ゑひたふ》れて了つた。お柳は早くから座を脱《はづ》して寝てゐたが、
『静や、吉野|様《さん》はモウお寝みになつたのかえ。』
『否《いいえ》、酔ツたから散歩して来るツて出てらしツてよ。』
『何時《いつ》頃?』
『二時間も前だわ。何処へ被行《いらしつ》たでせう?』
『昌作さんとかえ?』
『否《いいえ》、お一人。松蔵でもお迎ひにやツて見ませうか。』
『然《さ》うだねえ。』
『大丈夫だよ。』
と言ひ乍ら、赤い顔をした信吾が入ツて来た。
『彼奴《あいつ》の事《こつ》た、橋の方へでも行つてブラ/\してるだらう。それより俺は頭が痛くて為様《しやう》がないから、寝かして呉れよ。』
『お先に?』
『帰つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ酔つた!』
で、静子は下女に手伝はして、兄を寝せ、座敷を片付けてから、一人|離室《はなれ》に入つた。夜気が湿《しつと》りと籠つて、人なき室《へや》に洋燈が明るく点《つ》いてゐる。
一枚だけ残して雨戸も閉め、散乱《ちらか》つた物を丁寧《ていねい》に片寄せて、寝具も布き、蚊帳《かや》も吊つた。不図静子は、
『智恵子|様《さん》許《とこ》へ被行《いらし》つたのか知ら!』といふ疑ひを起した。『だつて、夜だもの。』『然し。』『豈夫《まさか》。』といふ考へが霎時《しばし》胸に乱れた。
『それにしても奈何《どう》なすつたらう?』
静子は、何がなしに此《この》室《へや》に居て見たい様な気がした。で、夏座布団を布いた机の前に坐つて、心持洋燈の火を細くした。
『秋になつたら私が此室《ここ》にゐる様にしようか知ら!』
机の上には、書《ほん》が五六冊。不図其中に、黒い表紙の写生帳が目に付いた。静子は何気なく其を取つて、或所を披《ひら》いた。
と、静子の眼は輝いた。顔が染まつた。人なき室をキヨロ/\と見巡して再《また》それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬《まが》ひもなく静子自身の顔ではないか!
Erste《エルステ》 Eindruck《アインドルツク》(第一印象)と、独逸《ドイツ》語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら静子には解らなかつた。
静子は、気がさした様に、俄かにそれを閉ぢて以前《もと》の様に書《ほん》の間に重ねた。そして、逃げる様に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい鼓動が頻りに胸に打つた。
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