ん》、貴女に少許《すこし》お願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》、真《ほん》の些《ちよつと》した事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出来る事なら……。』と智恵子は何時になく悶《もど》かし相な顔をした。
『出来る事ですとも。』まだ笑つて、
『その何ですよ、過日《こなひだ》、否《いや》昨日か、神山|様《さん》にも一日お願ひしたんですがね。ソノ、私は鮎釣に行きますから、御都合の可《い》い時一日学校に被来《いらしつ》てゐて下さいませんか?』
『ハ、可《よ》う御座いますとも。何日《いつ》でも貴方の御出懸になる時は、アノ大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ参ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、済みませんが。』
『何日でも……。』と言つて、智恵子は足早に裏の方に廻つた。
裏は直ぐ雑木の山になつて、下暗い木立の奥がコンモリと仰がれる。校舎の屋根に被《かぶ》さる様になつた青葉には、楢《なら》もあれば栗もある。鮮かな色に重なり合つて。
便所の後《うしろ》になつてゐる上口《あがりぐち》から、智恵子はスタ/\と坂を登つた。
木立の中から、心地よく湿つた風が顔へ吹く。と、そのコンモリした奥から愉しさうな昼|杜鵑《ほととぎす》の声。
声は小迷《さまよ》ふ様に、彼方此方《あちらこちら》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調《しらべ》を合せる。
智恵子は躍る様な心地になつて、ツト青葉の下蔭に潜《くぐ》り込んだ。
(八)の三
やや急な西向の傾斜、幾年《いくとせ》の落葉の朽ちた土に心地よく下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、処々、虎斑《とらふ》の様に影を落して、そこはかとなく揺めいた。細き太き、数知れぬ樹々の梢は参差《しんし》として相交つてゐる。
唆《そその》かす様な青葉の香が、頬を撫で、髪に戯れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隠れに昼杜鵑が啼く。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な、若い胸の底から漂ひ出る様な声だ。その声が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何処ともなき青葉の※[#「王+倉」、254−下−9]《さや》ぎ!
と、少し隔つた彼方《かなた》から、『ククヽヽクウ』と同じ声が起る。
『ククヽヽクウ、ククヽヽクウ。』と、背後《うしろ》の方からも。
『|漂へる声《ワンダリングブオイス》』とライダル湖畔の詩人が謳《うた》つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の声を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、声と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷《さまよ》うてゆく思ひがする。
声の在所《ありか》を覓《もと》むる如く、キヨロ/\と落着かぬ様に目を働かせて、径もなき木蔭地《こさぢ》の湿りを、智恵子は樹々の間を其方《そなた》に抜け此方《こなた》に潜る。夢見る人の足調《あしどり》とは是であらう。髪は肩に乱れ、胸に波打ち、ハラ/\と顔にも懸る。それを払はうとするでもない。
故もなく胸が騒いでゐる。酔つた様な、愉《たの》しい様な、切ない様な……宛然《さながら》葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の声。
「私ほど辛い悲しいものはない!」
恁《か》う理由のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。ただ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
『吉野さんが町に、加藤の家《うち》に来てゐる。』智恵子に解つてるのは之だけだ。
初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の挙動《やうす》は、今猶明かに心に残つてゐる。然し言葉を交したのでもない。友の静子は耳の根迄紅くなつてゐた。その静子は又、自分とアノ人が端なくも※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて盛岡に行く時、田圃に出て紛※[#「巾+兌」、255−上−16]《ハンケチ》を振つた。静子の底の底の心が、何故か自分に解つた様な気がする。
『何故|那時《あのとき》、私はアノ人の背後《うしろ》に隠れたらう?』恁う智恵子は自分に問うて見る。我知らず顔が紅くなる。
其晩、同じ久子の家に泊つた。久子兄妹とアノ人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に嬉《うれ》しんだらう! 久子の兄とアノ人との会話《はなし》が、解らぬ乍らに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁《か》う久子の兄が幾度《いくたび》か真摯《まじめ》に言つた。何かの話の時、
『矢張《やつぱり》女といふものは全く放たれ
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