子が腰を掛けたが、少し体を動しても互の体温《あたたかさ》を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動《しうち》――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない様な、否《いな》、はしたなく見られた様な気がして、『だつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》切懸《きつかけ》だつたんだもの。』と心で弁疎《いひわけ》して見ても、怎《どう》やら気が落着かない。乗合の人々からジロ/\顔を見られるので、仄《ほんの》りと上気してゐた。
北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右袖を拡げた様に東の空に連つた。車窓《まど》の前を野が走り木立が走る。時々、夥《おびただ》しい草葉の蒸香《いきれ》が風と共に入つて来る。
程なく列車が轟《ぐわう》と音を立てて松川の鉄橋に差《さし》かかると、窓外《そと》を眺めて黙つてゐた吉野は、
『ア、那家《あれ》が小川の家《うち》ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家《いへ》、その周囲《あたり》に四五軒|農家《ひやくしやうや》のある――それが川崎の小川家なのだ。
首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹《シスタア》が出てますよ。』
『アラ。』と言つて、智恵子も立つたが、怎《ど》う思つてか、外から見られぬ様に、男の背後《うしろ》に身を隠して、密《そつ》と覗いて見たものだ。
静子は小妹《いもうと》共と一緒に田の中の畔路《あぜみち》に立つて、紛※[#「巾+兌」、245−上−9]《はんけち》を振つてゐる。小妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。
智恵子は無性に心が騒いだ。
帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智恵子は耳の根まで紅くして極悪気《きまりわるげ》に俯向いてゐた。静子の行動《しうち》が、偶然か、はた意《こころ》あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何《いづ》れにしても智恵子の心には、万一《もしや》自分が男と一緒に乗つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極悪気《きまりわるげ》な様子を見て、『小川の所謂《いはゆる》近代的婦人《モダーンウーマン》も案外|初心《うぶ》だ!』と思つたかも知れない。
その実男も、先刻《さつき》汽車に乗つた時から、妙に此女と体を密接してゐることに圧迫を感じてるので。
それを紛らかさうとして、何か話を始め様としたが、兎角《とかく》、言葉が喉に塞《つま》る。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》筈はないと自分で制しながらも、断々《きれぎれ》に、信吾が此女を莫迦《ばか》に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角|冷《ひや》かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸《きつかけ》に、
『貴女は何日《いつ》お帰りになります?』と何気なく口を切つた。
『三日に、アノ帰らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張三日頃になるかも知れません。』と言つたが、不図思ひついた事がある様に、『貴女は盛岡の中学に図画の教師をしてゐる男を御存じありませんか? 渡辺金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智恵子は驚いた様な顔をする。『貴方はアノ、那《あ》の方と同じ学校を……?』
『然《さ》うです。美術学校で同級だつたんですが、……あゝ御存じですか! 然うですか!』と鷹揚に頷いて、『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ為さらない様ですが。』と、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡辺さんへ被行《いらつしや》るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふンですがね。』と、少し腑に落ちぬ様な目付をする。
『マア、左様《さう》で御座いますか!』と一層驚いて、『私《わたし》もアノ、其家《そこ》へ参りますので……渡辺さんの妹様《いもうとさん》と、私と矢張《やはり》同じ級《クラス》で御座いまして。』
『妹様と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『アノ、久子さんと仰《おつしや》います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同《おんな》じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア真箇《ほんと》に!』と言ひ乍ら、智恵子は忽ち或る不安に襲れた。静子の事が心に浮んだので。
(七)の一
宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣《あゆかけ》に出懸けた。
休暇になつてからの学校ほど伽藍堂《がらんどう》に寂しいものはない。建物が大きいのと、平生耳を聾する様な喧騒
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