麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》!』と智恵子も眸を据ゑた。
『アラ、鮎釣《あゆかけ》には那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]|扮装《なり》して行くわ、皆《みんな》。……昌作さんは近頃毎日よ。』
と言つてる時、思ひがけなくも轢々《ごろごろ》といふ音響《ひびき》が二人の足に響いた。
一台の俥が、今しも町の方から来て橋の上に差懸つたのだ。二人は期せずして其《その》方《はう》に向いたが、
『アラ!』と静子は声を出して驚いて忽ち顔を染めた。女心は矢よりも早く、己《おの》が服装《みなり》の不行儀《ふしだら》なのを恥ぢたので。
(五)の四
近《ちかづ》く俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持揺れ出した。
洋服姿の俥上の男は、麦藁帽の頭を俯向《うつむ》けて、膝の上の写真帖《スケツチブツク》に何やら書いてゐる――一目見て静子は、兄の話で今日あたり来るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩《かうま》午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路伝ひの近道は取れず、態々《わざわざ》本道を渋民の町へ廻つて来たものであらう。智恵子も亦《また》、話は先刻《さつき》聞いたので、すぐそれと気が付いた。
『お嬢様《ぢやうさあ》、お嬢様|許《とこ》のお客様を乗せて来ただあ。』と、車夫の元吉は高い声で呼びかけ乍ら轅《かぢ》を止めて、
『あれがハア、小川様のお嬢様《じやうさあ》でがンす。』と俥上の人に言ふ。顔一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
智恵子は、自分がその小川家の者でない事を現す様に、一足後へ退《すさ》つた。その時、傍《かたへ》の静子の耳の紅くなつてゐる事に気がついた。
『あ、然《さ》うですか。』と、俥上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱《と》つて、
『僕は吉野|満太郎《みつたらう》です。小川が――小川君が居ませうか?』
と武骨な調子で言ふ。
『ハ。』と静子は塞《つま》つた様な声を出して、『アノ、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親げな口を利いたが、些《ちよい》と俯向加減にして立つてゐる智恵子の方を偸視《ぬす》んで、
『失礼しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と静子
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