えた。静子清子の外には友も無い身の、(富江とは同僚乍ら余り親くしなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訪《たづ》ねる習慣《ならはし》であつたのに、信吾が帰つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。
『今日お多忙《いそが》しくつて?』
『否《いいえ》、土曜日ですもの、緩《ゆつく》りしてらしつても可《い》いわね?』
『可けないの。今日は私、お使者《つかひ》よ。』
『でもマア可いわ。』
『アラ、貴女のお迎ひに来たのよ。今夜アノ、宅《うち》で加留多会を行《や》りますから母が何卒《どうぞ》ツて。……被来《いらつしや》るわね?』
『加留多、私取れなくつてよ。』
『マア、貴女御謙遜ね?』
『真箇《ほんと》よ。随分|久《しばら》く取らないんですもの。』
『可いわ。私だつて下手ですもの。ね、被来るわね?』と静子は姉にでも甘へる様な調子。
『然うね?』と智恵子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、余り気の乗らぬ様な口を利いて、『誰々? 集るのは?』
『十人|許《ばかし》よ。』
『随分多勢ね?』
『だつて、宅《うち》許りでも選手《チヤンピオン》が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智恵子は調戯《からか》ふ様に目で笑ふ。
『此処に。』と頤《おとがひ》で我が胸を指して、『下手組の大将よ。』と無邪気に笑つた。
智恵子は、信吾が帰つてからの静子の、常になく生々《いきいき》と噪《はしや》いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ様な情緒《こころもち》を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分の間に、何の情愛がある?
智恵子は我知らず気が進んだ。『何時から? 静子さん。』
『今直ぐ、何物《なんに》も無いんですけど晩餐《ごはん》を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの、一緒に行つて下すつて? 済まないけど。』
『ハ。貴女となら何処までゞも。』と、笑つた。
軈《やが》て智恵子は、『それでは一寸。』と会釈して、『失礼ですわねえ。』と言ひ乍ら、室《へや》の隅で着換に懸つたが、何を思つてか、取出した衣服《きもの》は其儘に、着てゐた紺絣の平常着《ふだんぎ》へ、袴だけ穿いた。
其後姿を見上げてゐた静子は、思出す事でもあるらしく笑《わらひ》を含んでゐたが、少し小声で、『アノ山内様ね。』
『え。』と此方《こつち》へ向く。
『ア
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