代、お利代。』と、嗄《しはが》れた声で呼び、老女《としより》が眼を覚まして、寝返りでも為《し》たいのであらう。
智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、
『ハ、只今。』
と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の意《こころ》を湛《たた》へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。急《いそが》しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は眤《じつ》と呼吸を凝《こら》した。神から授つた義務を遂《は》たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』
と老女《としより》の声が聞える。
『ホホヽヽ、今|午後《ひるすぎ》の三時頃ですよ祖母《おばあ》さん。御気分は?』
『些《ちつ》とも平生《ふだん》と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』
『否《いいえ》、今日は土曜日ですから先刻《さつき》にお帰りになりましたよ。そしてね祖母《おばあ》さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀《おや》、然《さ》うかい。それぢやお前、何か御返礼に上げなくちや不可《いけ》ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の様な気で……。』
『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく気を付けてね、先生を大事にして上げなけれや不可《いけ》ないよ。今度の先生の様に良い人はお前、何処に行つたつて有るものぢやないよ。』と小供にでも訓《をし》へる様に言ふ。
智恵子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾《あつま》るを覚えた。
『ア痛、ア痛、寝返《ねがへり》の時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智恵子は気が付いた様に、また針を動かし出した。
五分間許り経つてお利代が再び入つて来た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『御気分が宜《い》い様ね?』
『ハ。モウ夜が明けたかなんて恍《とぼ》けて……。』と少し笑つて、『皆《みんな》先生のお蔭で御座います。』
『マア小母さんは!』と同情深《おもひやりぶか》い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家《うち》の人の様にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もアノお祖母さんが、先生の様な人は何処に行つても
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