々人を虐めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左様なら!』
『一寸々々《ちよいとちよいと》、真箇《ほんと》よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は再《また》妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家《うち》へ入つた。
 人なき裏路を自棄《やけ》に急ぎながら、信吾は浅猿《あさま》しき自嘲の念を制することが出来なかつた。少許《すこし》下向いた其顔は不愉快に堪へぬと言つた様に曇つた。
『莫迦!』
と声を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
 信吾の心が生れてから今日一日ほど動揺した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智恵子を訪《と》ふと、初めは盛んに気焔を吐いた。現代の学者を糞味噌に罵倒し尽し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]話の機会《きつかけ》からか、智恵子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤《じつ》と俯向いてゐた。
 最後に信吾は言つた。
『智恵子さん、貴女は哀れな僕の述懐を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智恵子さん!』と、情が迫つたといふ様に声を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智恵子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです。それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……』
『小川|様《さん》!』と、女は佶《きつ》と顔をあげた。其顔は眉毛一本動かなかつた。『私の様なもののことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『ハ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない様にお願ひします。』
 信吾は眤と腕を組んだ。
『失礼な事を申す様ですが……』
『ウヽ……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、サモ落胆《がつかり》した様に言つて、『然しです、何か理由が、然《さ》う被仰《おつしや》るからには有らうぢやありませんか? それを話して頂く訳にいかないんですか?』
『…………』
『智恵子さん! 僕がこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお断りになるとは余りです。余りに侮辱です。』
『ですけれど……』

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