柳は早くから座を脱《はづ》して寝てゐたが、
『静や、吉野|様《さん》はモウお寝みになつたのかえ。』
『否《いいえ》、酔ツたから散歩して来るツて出てらしツてよ。』
『何時《いつ》頃?』
『二時間も前だわ。何処へ被行《いらしつ》たでせう?』
『昌作さんとかえ?』
『否《いいえ》、お一人。松蔵でもお迎ひにやツて見ませうか。』
『然《さ》うだねえ。』
『大丈夫だよ。』
と言ひ乍ら、赤い顔をした信吾が入ツて来た。
『彼奴《あいつ》の事《こつ》た、橋の方へでも行つてブラ/\してるだらう。それより俺は頭が痛くて為様《しやう》がないから、寝かして呉れよ。』
『お先に?』
『帰つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ酔つた!』
 で、静子は下女に手伝はして、兄を寝せ、座敷を片付けてから、一人|離室《はなれ》に入つた。夜気が湿《しつと》りと籠つて、人なき室《へや》に洋燈が明るく点《つ》いてゐる。
 一枚だけ残して雨戸も閉め、散乱《ちらか》つた物を丁寧《ていねい》に片寄せて、寝具も布き、蚊帳《かや》も吊つた。不図静子は、
『智恵子|様《さん》許《とこ》へ被行《いらし》つたのか知ら!』といふ疑ひを起した。『だつて、夜だもの。』『然し。』『豈夫《まさか》。』といふ考へが霎時《しばし》胸に乱れた。
『それにしても奈何《どう》なすつたらう?』
 静子は、何がなしに此《この》室《へや》に居て見たい様な気がした。で、夏座布団を布いた机の前に坐つて、心持洋燈の火を細くした。
『秋になつたら私が此室《ここ》にゐる様にしようか知ら!』
 机の上には、書《ほん》が五六冊。不図其中に、黒い表紙の写生帳が目に付いた。静子は何気なく其を取つて、或所を披《ひら》いた。
 と、静子の眼は輝いた。顔が染まつた。人なき室をキヨロ/\と見巡して再《また》それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬《まが》ひもなく静子自身の顔ではないか!
 Erste《エルステ》 Eindruck《アインドルツク》(第一印象)と、独逸《ドイツ》語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら静子には解らなかつた。
 静子は、気がさした様に、俄かにそれを閉ぢて以前《もと》の様に書《ほん》の間に重ねた。そして、逃げる様に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい鼓動が頻りに胸に打つた。
 次の頁にも、その次の頁
前へ 次へ
全109ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング