の音も遠くなつた。熟した麦の香《か》が、暗い夜路に漂ようてゐる。
先に立つた女児等《こどもら》の心々は、まだ何か恐怖《おそれ》に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々《ひそひそ》と露を踏んでゆく。訳もなく歔欷《すすりあ》げてゐる新坊を、吉野は確乎《しつか》と懐に抱いて、何か深い考へに落ちた態《さま》で、その後《あと》に跟《つ》いた。
智恵子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顔に小供の顔を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢《いつぱい》になつてゐて、それで、口は余り利けなかつた。
『阿母様《おつかさん》!』
と、新坊は思出した様に時々呼んで、ワアと力なく泣く。
『モウ泣かないの、今阿母様の処へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊|様《さん》、モウ泣かないの。』
と、智恵子は横合から頻《しきり》に慰《なだ》める。
『真箇《ほんと》に私、……貴方が被来《いらつしや》らなかつたら、私|奈何《どう》したで御座いませう!』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事はありません。』
『だつて私、万一《もしも》の事があつたら、宿の小母さんに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか……。』
『日向様!』
と吉野は重々しい語調《てうし》で呼んだ。
『僕は貴女に然う言はれると、心苦しいです。誰だつて那《あ》の際|那《あ》の場処に居たら、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あれ》位の事をするのは普通《あたりまへ》ぢやありませんか?』
『だつて、此《この》児《こ》の生命《いのち》を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向様!』と吉野は再《また》呼んだ。『モ少許《すこし》真摯《まじめ》に考へて見ませう……若し那《あ》の際、那処《あそこ》に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じ行動《こと》を行《や》るにしても、モツト違つた心持で行《や》つたに違ひない。』
『まあ貴女は、……』
『言つて見れば一種の偽善だ!』
然《さ》う言ふ顔を、智恵子は暗《やみ》ながら眤と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『偽善です!』と、男は自分を叱付ける様に重く言つた。渠《かれ》は今、自分の心が何物か
前へ
次へ
全109ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング