、或は理窟によつて、その事の當然あるべきを知り、且つあるを認めながら、猶且つ、それを苦痛若くは他の感じとして直接に驗しないうちは眞に信ずることの出來ない――寧ろ信じようとしない人間の悲しい横着は、たゞそれのみに止まらなかつた。予は予の腹に水がたまつてゐるといふ事も、診察を受ける前からして多分さうだらうと想像してゐたに拘はらず、後に至つて、下腹にあけた穴から黒い護謨の管を傳つて際限もなく濃黄色の液體の流れ落つるのを見るまでは、何うしてもそうと確かには信じかねてゐたのである。
すつきりと晴れた空から、寒い風が吹くともなく吹いて來る日であつた。予を乘せた俥が朝から二度大學病院の門を出入した。さうして三度目にまた同じ俥で門を入つた時は、予はもう當分の別れを見慣れた本郷の通に告げてゐた。
それは午後二時少し過ぎであつた。俥は靜かに轅《ながえ》を青山内科の玄關先に下した。予は其處で入院の手續を濟ました。さうして一つの鞄と一つの風呂敷包とを兩手に提げて、病院らしい重い空氣を感じながら幅廣い階段を上つた。上り切つた時、予は兩腕の力の拔けてしまつたことを知つた。胸には動悸がしてゐた。「矢つぱり俺は病人だ。」さう思ひながら暫らく荷物を下して息を繼いだ。
「青山内科看護婦室」といふ札のある入口へ行つてコツ/\扉《ドア》を叩くと、草履の音と共に一人の女が現れた。女は何囘も水を潜つたやうな縞の雜使婦服を着て、背が低かつた。予は默つて受付から貰つて來た一枚の紙片を渡した。「あ、さうですか。」女はさう言つた。さうして直ぐまた中へ入つて行つた。
予はその時首を囘らして予の立つてゐる廊下の後先を眺めた。(明治四十四年二月稿)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店
1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年9月10日作成
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