さうして、自分の體をたゞ一個の肉體として同じ人間の一人の前に置いたといふことに就いての一種の羞耻を感じながら、急に自分の生活を變へなければならなくなつた不安と喜びとを抱いて大學病院の門を出た。
入院! この決心をすることは、しかしながら、予に取つては甚だ容易な事であつた。予の一身を繞る幾多の事情は、予をして容易にその縛られたる境地から身を拔くことを許さない。また予が入院するといふことは予が近く友人と企てゝゐる或仕事に對しても少からぬ打撃であつた。しかし予の健康が入院しなければならぬ状態にあるものとすれば、入院するより外に途が無い。予は斯う心の中で頑強に主張した。さうしてこの主張だけは、予が平生絶間なく心の中に主張して、しかもその一つをだも通しかねてゐる色々の主張とは違つて、最初から無難に通れさうに見えた。
予は竊《ひそか》に懷手をして、堅く張り出してゐる腹の一部を撫でて見ながら、何となく頼母しいものゝやうに思つた。予をして爾《しか》く速かに入院の決心をなすべく誘つたものは、夜《よる》寢てさへも安き眠りを許さぬ程に壓迫するその腹でも、また青柳學士の口から出た予の生命に對する脅迫の言葉でもなく、實に予をして僅かに一日の休養さへも意に任せさせぬ忙がしい生活そのものであつた。予はそれだけ予の生活に飽きてゐた、疲れてゐた、憎んでゐた。予は病院の長い、さうして靜かな夜を想像して、一人當分の間其處にこの生活の急追を遁れることが出來ると思つた。
二
素人目で見れば、予の容態はたゞ腹の膨れただけであつた。さうして腹の膨れるといふことは、小さい時友人と競爭で薯汁飯《とろゝめし》を食つた時にもあつたことであつた。たゞそれが長く續いてゐるといふに過ぎなかつた。絶えず壓迫されるといふだけで、痛みは少しも無かつた。この痛みの無いといふことが、予が予の健康の變調を來してゐることを知りつつ、猶且つ友人の一人が來て、これから一緒に大學病院へ行かうといふまでは、左程醫者の必要を感じないでゐた第一の理由であつた。同じ理由から予はまた診察を受けた後でも、既に自分の病人であることを知つてゐて、猶且つ眞に自分を病人と思ふことが出來なかつた。「腹が膨れたから病院に入る。」かういふ文句を四五枚の葉書に書いて見て、一人で可笑しくなつた。この葉書を受取る人も屹度笑ふだらうと思つた。
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