包紙の雨に濡れたのを持つて、渠の居間にしてゐる穢《むさくる》しい二階に上つて來た。
『また歸つて來たのか? アハヽヽヽ。』と渠は笑つた。そして、その儘本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかつた。
 何時の間にか、渠は自信といふものを失つてゐた。然しそれは、渠自身も、周圍の人も氣が附かなかつた。
 そして、前夜、短い手紙でも書く樣に、何氣なくスラスラと解職願を書きながらも、學校を罷めて奈何するといふ決心はなかつたのだ。
 健は例《いつも》の樣に亭乎《すらり》とした體を少し反身《そりみ》に、確乎《しつかり》した歩調で歩いて、行き合ふ兒女《こども》等の會釋に微笑みながらも、始終思慮深い目附をして、
『罷めても食へぬし、罷めなくても食へぬ……』と、その事許り思つてゐた。 
 家へ入ると、通し庭の壁際に据ゑた小形の竈の前に小く蹲《しやが》んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、『歸《けえ》つたか。お腹《なか》が減《へ》つたべアな?』と、強ひて作つた樣な笑顏を見せた。今が今まで我家の將來でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。
 縞目も見えぬ洗ひ晒しの双子の筒袖の、袖口の擦り
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