と角力をとつて、私の方が勝つたのだ。」と言つて居られました。その由松は近頃では清書なんか人並に書く樣になりました。算術だけはいくら骨を折つても駄目ださうです。
秀子さん、そら、あの寄宿舍の談話室ね、彼處の壁にペスタロッヂが子供を教へてゐる畫が掲《か》けてあつたでせう。あのペスタロッヂは痩せて骨立つた老人でしたが、私、千早先生が由松に物を言つてるところを横から見てゐると、何といふことなくあの畫を思ひ出すことがありますの。それは先生は、無論一生を教育事業に獻げるお積りではなく、お家の事情で當分あゝして居られるのでせうが、私は恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》人を長く教育界に留めて置かぬのが、何より殘念な事と思ひます。先生は何か人の知らぬ大きな事を考へて居られる樣ですが、私共には分りません。然しそのお話を聽いてゐると、常々私共の行きたい/\と思つてる處――何處ですか知りませんが――へ段々連れて行かれる樣な氣がします。そして先生は、自分は教育界の獅子身中の蟲だと言つて居られるの。又、今の社會を改造するには先づ小學教育を破壞しなければいけない、自分に若し二つ體があつたら、一つでは一生代用教員をしてゐたいと言つてます。奈何して小學教育を破壞するかと訊くと、何有《なあに》ホンの少しの違ひです、人を生れた時の儘で大きくならせる方針を取れや可いんですと答へられました。
『然し秀子さん、千早先生は私にはまだ一つの謎です。何處か分らないところがあります。ですけれども、毎日同じ學校にゐて、毎日先生の爲さる事を見てゐると、どうしても敬服せずには居られませんの。先生は隨分苦しい生活をして居られます。それはお氣の毒な程です。そして、先生の奧樣といふ人は、矢張り好い人で、優しい、美しい(但し色は少し黒いけれど)親切な方です……。』
と書いたものだ。實際それは孝子の思つてゐる通りで、この若い女教師から見ると、健が月末の出席|歩合《ぶあひ》の調べを怠けるのさへ、コセ/\した他の教師共より偉《えら》い樣に見えた。
が、流石は女心で、例へば健が郡視學などと揶揄半分に議論をする時とか、父の目の前で手嚴しく忠一を叱る時などは、傍《はた》で見る目もハラ/\して、顏を擧げ得なかつた。
今も、健が聲高に忠一を叱つたので、宿直室の話聲が礑《はた》と止んだ。孝子は耳敏くもそれを聞き附けて忠一が後退《あとしざ》りに出て行くと、
『まア、先生は。』と低聲に言つて、口を窄めて微笑みながら健の顏を見た。
『ハハヽヽ。』と、渠は輕く笑つた。そして、眼を圓くして直ぐ前に立つてゐる新入生の一人に、
『可いか。お前も學校に入ると、不斷先生の斷りなしに入つては不可《いけな》といふ處へ入れば、今の人の樣に叱られるんだぞ。』
『ハ。』と言つて、其兒はピョコリと頭を下げた。火傷の痕の大きい禿が後頭部に光つた。
『忠一イ。忠一イ。』と、宿直室から校長の妻の呼ぶ聲が洩れた。健と孝子は目と目で笑ひ合つた。
軈て、埃に染みた、黒の詰襟の洋服を着た校長の安藤が出て來て、健と代つて新入生を取扱つた。健は自分の卓に行つて、その受持の教務にかかつた。
九時半頃、秋野教師が遲刻の辯疏《いひわけ》を爲い/\入つて來て、何時も其室の柱に懸けて置く黒繻子の袴を穿いた時は、後から/\と來た新入生も大方來盡して、職員室の中は空いてゐた。健は卓の上から延び上つて、其處に垂れて居る索《なわ》を續け樣に強く引いた。壁の彼方では勇しく號鐘《かね》が鳴り出す。今か今かとそれを待ちあぐんでゐた生徒等は、一しきり春の潮の樣に騷いだ。
五分とも經たぬうちに、今度は秋野がその鐘索を引いて、先づ控所へ出て行つた。と、健は校長の前へ行つて、半紙を八つに疊んだ一枚の紙を無造作に出した。
『これ書いて來ました。何卒宜しく願ひます。』
笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さゝうな顏をした安藤は、臆病らしい眼附をして其紙と健の顏を見比べた。前夜訪ねて來て書式を聞いた行つたのだから、展《あ》けて見なくても解職願な事は解つてゐる。
そして、妙に喉に絡まつな聲で言つた。
『然うでごあんすか。』
『は。何卒《どうぞ》。』
綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其疊んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは豫々聞いてゐた爲めであらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。
『何と申して可いか……ナンですけれども、お決《き》めになつてあるのだば爲方がない譯でごあんす。』
『何卒《どうか》宜しく、お取り計ひを願ひます。』
と言つて健は、輕く會釋して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。
控所には、級が新しくなつて列ぶべき場所の解らなくなつた
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