煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿々《じめじめ》して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹《おほいてふ》の、まだ一片《ひとひら》も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸《でこぼこ》の劇しい藪路、それを東に一町|許《ばかり》で、天神山に達する。しん/\と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石甃《いしだたみ》の両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ/\と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然《ひつそり》として居る。周匝《あたり》にひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石の狛《こまいぬ》である。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏光《あぶらびか》りがして居る。そして、其又顔といつたら、蓋《けだ》し是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹を造《こしら》へた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、克《よ》く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した高士の俤《おもかげ》、イヤ、それよりも一段《もつと》俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、『石狛《こまいぬ》よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾党の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不格好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を転ずると、杉の木立の隙《ひま》から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然《さながら》一幅の風景画の傑作だ。周匝《あたり》には心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又、自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野《へいだの》といふ松原、晴れた日曜の茸狩《たけがり》に、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其処の松蔭、此処の松蔭と探し歩いたものであつた。――
 昼餐《ひるげ》をば神子田《みこだ》のお苑《その》さんといふ従姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で済ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。奇麗な奥様をサ。』と楽しげに笑ふのであつた。
 帰路《かへり》には、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵《くりやがはのさく》へ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の旧師である。
 幅広く美しい内丸の大逵《おほどほり》、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際な胸から搾り出す様な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘楼の下を西へ歩いて居た。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白の衣《きぬ》を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。――
 これは此《この》市《し》で一番人の目に立つ雄大な二階立《にかいだち》の白堊館《はくあかん》、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。巨人? 然《さう》だ、慥かに巨人だ。啻《ただ》に盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、総ての意味に於て巨人たるものは、実にこの堂々たる、巍然《ぎぜん》たる、秋天一碧の下に兀《こつ》として聳え立つ雪白の大校舎である。昔、自分は此巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、学校時代のシルレルとなつた事もある。嘗《かつ》て十三歳の春から十八歳の春まで全《まる》五年間の自分の生命といふものは、実に此巨人の永遠なる生命の一小部分であつたのだ。噫《ああ》、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、怎《どう》やら揺ぎ出す様に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え抜いた様に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を着て突立つたまま。
 印度衰亡史は云はずもの事、まだ一冊の著述さへなく、茨城県の片田舎で月給四十円の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづから頭《かうべ》の低《た》るるを覚えた。
 白色の大校舎の正面には、矢張白色の大門柱が、厳めしく並び立つて居る。この門柱の両の袖には、又矢張白色の、幾百本と数知れぬ木
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