、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶気《ものうげ》な、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。
澄み切つた鋼鉄色《かうてついろ》の天蓋を被《かづ》いて、寂然《じやくねん》と静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨《うろつ》く楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲《ここ》で、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠《わだかま》るありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨《うろつ》いて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町《さんのへちやう》、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷《なはて》といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境《むにんきやう》を一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸路を逸《そ》れて、かの有名な田中の石地蔵の背《せな》を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生《ひごろ》の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ/\と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深に被《かぶ》つた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人|鼎足的《ていそくてき》関係のあつた花郷《かきやう》を訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四家町《よつやちやう》は寂然《ひつそり》として、唯一軒理髪床の硝子戸に燈光《あかり》が射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密淫売町《ぢごくまち》の大工町《だいくちやう》で、芸者町なる本町《ほんちやう》通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火《あかり》が射して居る。ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍点]と口笛を吹くと、矢張ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍点]と答へた。今度はホーホケキヨ[#「ホーホケキヨ」に傍点]とやる、(これは自分の名の暗号であつた。)復ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍点]と答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平生《いつも》の如く入つて行かうと思つて、上框《あがりがまち》の戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然《びつくり》し乍ら星明《ほしあかり》で透《すか》して見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻《さつき》畷で逢つた奴に似て居る。
『立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。』
驚いた、真《まこと》に驚いた。この声は我が中学の体操教師、須山《すやま》といふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。
『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾《つ》けて来て見ると、矢張《やつぱり》口笛で密淫売《ぢごく》と合図をしてけつかる。……』
自分は手を握られた儘、開《あ》いた口が塞がらぬ。
『此間《こなひだ》職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓《ふらち》ぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一昨夜《をととひ》は呉服町で綺麗な簪《かんざし》を買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩《ゆうべ》は古河端のさいかち[#「さいかち」に傍点]の樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場《げんぢやう》を見届けたぞ。案の諚《ぢやう》大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金銭《ぜに》は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。』
自分の困憊《こんぱい》の状察すべしである。恰《あたか》も此時、洋燈《ランプ》片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝《くわいが》に堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、
『何《どう》しあんした?』
と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐一《ちくいち》事情を話し、更に須山に向いて、
『先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫売婦《ぢごく》ではごあんせんぜ。』と云つた。
須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危気《あやふげ》に動かし乍ら、洒脱《しやだつ》な声をあげて叫び出した。
『立花|
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