点]と答へた。今度はホーホケキヨ[#「ホーホケキヨ」に傍点]とやる、(これは自分の名の暗号であつた。)復ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍点]と答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平生《いつも》の如く入つて行かうと思つて、上框《あがりがまち》の戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然《びつくり》し乍ら星明《ほしあかり》で透《すか》して見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻《さつき》畷で逢つた奴に似て居る。
『立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。』
 驚いた、真《まこと》に驚いた。この声は我が中学の体操教師、須山《すやま》といふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。
『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾《つ》けて来て見ると、矢張《やつぱり》口笛で密淫売《ぢごく》と合図をしてけつかる。……』
 自分は手を握られた儘、開《あ》いた口が塞がらぬ。
『此間《こなひだ》職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓《ふらち》ぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一昨夜《をととひ》は呉服町で綺麗な簪《かんざし》を買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩《ゆうべ》は古河端のさいかち[#「さいかち」に傍点]の樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場《げんぢやう》を見届けたぞ。案の諚《ぢやう》大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金銭《ぜに》は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。』
 自分の困憊《こんぱい》の状察すべしである。恰《あたか》も此時、洋燈《ランプ》片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝《くわいが》に堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、
『何《どう》しあんした?』
と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐一《ちくいち》事情を話し、更に須山に向いて、
『先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫売婦《ぢごく》ではごあんせんぜ。』と云つた。
 須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危気《あやふげ》に動かし乍ら、洒脱《しやだつ》な声をあげて叫び出した。
『立花|
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