の擔いで居る男に蹴倒されたのだ。この非常なる活劇は、無論眞の一轉瞬の間に演ぜられた。
噫、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初對面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女の名であつた樣だ。
以上二つの舊知の名が、端《はし》なく我|頭腦《あたま》の中でカチリと相觸れた時、其一刹那、或る莊嚴な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の兩眼に立ち塞がつた。
自分は今、茲に霎時《しばらく》、五年前の昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、處は矢張此の新山祠畔の伯母が家。
史學研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辭した日の夕方、この伯母が家に著いて、晩《く》れ行く秋の三日四日、あかぬ別れを第二の故郷と偕《とも》に惜まれたのであつた。
一夜《ひとよ》、伯母やお苑《その》さんと隨分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは、遠近《をちこち》に一番鷄の聲を聞く頃であつたが、翌くる朝は怎《ど》うしたものか、例になく早く目が覺めた。枕頭《まくらもと》の障子には、わづかに水を撒《ま》いた許りの薄光《うすひかり》が聲もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に氣を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ/\、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛然《さながら》初陣の曉と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥床《ふしど》を離れぬのを、何か安逸を貪る所業の樣に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに靜かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ樣に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、颯《さつ》と心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。
井戸ある屋後へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]ると、此處は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の廣葉や、紫の色褪せて莖許りの茄子の、痩せた骸骨《むくろ》を並べてゐる畝や、拔き殘された大根の剛《こは》ばつた葉の上に、東雲《しののめ》の光が白々と宿つて居た。否《いな》これは、東雲の光だけではない、置き餘る露の珠《たま》が東雲の光と冷かな接吻《くちづけ》をして居たのだ。此野菜畑の突當りが、一重《ひとへ》の木槿垣《むくげがき》によつて、新山堂の正一位樣と背中合せになつて居る。滿天滿地、闃《げき》として脈搏つ程の響もない。
顏を洗ふべく、靜かに井戸に近《ちかづ》いた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この曉方の神々しい靜寂《しづけさ》を破る必要がなかつた。大きい花崗岩《みかげいし》の臺に載つた洗面盥には、見よ/\、溢れる許り盈々《なみ/\》と、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏として銀水の如く盛つてあるではないか。加之《のみならず》、此一面の明鏡は又、黄金の色のいと鮮かな一|片《ひら》の小扇さへ載せて居る。――すべて木の葉の中で、天《あま》が下の王妃の君とも稱《たた》ふべき公孫樹《いてふ》の葉、――新山堂の境内の天聳《あまそゝ》る母樹《はゝぎ》の枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり/\と舞ひ離れて來たものであらう。
自分は唯恍として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて、魂《たましひ》無何有《むかう》の境に逍遙《さまよ》ふといふ心地ではない。謂はゞ、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る樣な心地だ。
較々《やゝ》霎時《しばし》して、自分は徐ろに其一片の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴《ひとつ》二滴《ふたつ》の銀《しろがね》の雫を口の中に滴らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端《はし》に載せた。
顏を洗つてから、可成《なるべく》音のせぬ樣に水を汲み上げて、盥の水を以前《もと》の如く清く盈々《なみ/\》として置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前《もと》の如くそれに浮べた。
恁《かく》して自分は、云ふに云はれぬ或る清淨な滿足を、心一杯に感じたのであつた。
起き出でた時よりは餘程明るくなつたが、まだ/\日の出るには程がある。家の中でも隣家《となり》でも、誰一人起きたものがない。自分は靜かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方《あちこち》と歩いて居た。
だん/\進んで行くと、突當りの木槿垣《むくげがき》の下に、山の端《は》はなれた許りの大滿月位な、シッポリと露を帶びた雪白の玉菜《キャベーヂ》が、六個《むつ》七個《なゝつ》並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり實割れるばかり豐《ふくよ》かな趣きを見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。
不圖、何か知ら人の近寄る樣なけはひがした。菜園滿地の露のひそめき乎? 否否、露に聲のある筈がない。と思つて眼を轉じた時、自分はひやり[#「ひやり」に傍点]と許り心を愕《おどろ》かした。そして、呼吸《いき》をひ
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