されて、いと物靜かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と櫻樹の間には一條の淺い溝があつて、掬《すく》はば凝つて掌上《てのひら》に晶《たま》ともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い櫻の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭《かしら》の尖端々々《とがり/\》には、殆んど一本毎に眞赤な蜻蛉《とんぼ》が止つて居る。
 自分は、えも云はれぬ懷かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此の白門に向つて歩を進めた。溝に架《わた》した花崗岩《みかげいし》の橋の上に、髮ふり亂して垢光りする襤褸を著た女乞食が、二歳許りの石塊《いしくれ》の樣な兒に乳房を啣《ふく》ませて坐つて居た。其|周匝《めぐり》には五六人の男の兒が立つて居て、何か祕々《ひそ/\》と囁き合つて居る。白玉殿前、此一點の醜惡! 此醜惡をも、然し、自分は敢て醜惡と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである。市の中央の大逵《おほどほり》で、然も白晝、穢ない/\女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披《はだ》けて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都會に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常にある事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を發揮して見せる必要な條件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜惡を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覺えた。そして靜かに門内に足を入れた。
 校内の案内は能《よ》く知つて居る。門から直ぐ左に折れた、ヅカ/\と小使室の入口に進んだ。
『鹿川先生は、モウお退出《ひけ》になりましたか?』
 鹿川先生といふは、抑々の創始《はじめ》から此學校と運命を偕《とも》にした、既に七十近い、徳望縣下に鳴る老儒者である。されば、今迄此處の講堂に出入した幾千と數の知れぬうら若い求學者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚《あつま》つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛然《さながら》これ生きた教員の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘《かゝはらず》、今猶しみ/″\と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。
 自分の問に對して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎時《しばらく》して、
『イヤ、立花さんでアごあせんか? こりや怎《ど》うもお久振でごあんした喃《なあ》。』
と、聞き覺えのある、錆びた/\聲が應じた。ああ然《さう》だ、この聲の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以來既に三十年近く勤續して居る正直者、歩振《あるきぶり》の可笑《をか》しなところから附けられた『家鴨《あひる》』といふ綽名《あだな》をも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。
『今日はハア土曜日でごあんすから、先生は皆《みんな》お歸りになりあしたでア。』
 土曜日? おゝ然《さう》であつた。學校教員は誰しも土曜日の來るを指折り數へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアッケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の舊制を捨てて此制を採用し、ひいては今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克《よ》く研究して居る癖に、怎《ど》うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滯留三日にして早く既に盛岡人の呑氣な氣性の感化を蒙つたのかも知れない。
 此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きな竈《かまど》があつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯を沸《たぎ》らして居る。自分は此學校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた煖爐《ストーブ》には、力の弱いところから近づく事も出來ないで、よくこの竈《かまど》の前へ來て晝食のパンを噛つた事を思出した。そして、此處を立去つた。
 門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で樂しく語り合つた事のある、玄關の上の大露臺《だいバルコニイ》を振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝《めぐり》に立つて居た兒供の一人が、頓狂な聲を張上げて叫んだ。
『あれ/\、がんこ[#「がんこ」に傍点]ア來た、がんこ[#「がんこ」に傍点]ア來た。』がんこ[#「がんこ」に傍点]とは盛岡地方で『葬列』といふ事である。此聲の如何に高かつたかは、自分が悠々たる追憶の怡樂《いつらく》の中から、俄かに振返つて、其兒供の指す方を見たのでも解る。これは恰度、門口へ來た配達夫に、『△△さん、電報です。』と穩かに云はれるよりも、『電報ツ。』と取つて投げる樣なけたたましい聲で叫ばれる方が、一層其電文が
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