と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中に沒したのであつた
自分は既に、五年振で此市に來て目前《まのあたり》觀察した種々の變遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此市と自分との關係から、盛岡は美しい日本の都會の一つである事、此美しい都會が、雨と夜と秋との場合に最も自分の氣に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も樂しい秋の盛岡――大|穹窿《てんじやう》が無邊際に澄み切つて、空中には一微塵の影もなく、田舍口から入つて來る炭賣薪賣の馬の、冴えた/\鈴の音が、市の中央《まんなか》まで明瞭《はつきり》響く程透徹であることや、雨滴《あまだれ》式の此市《こゝ》の女性が、嚴肅な、赤裸々な、明皙の心の樣な秋の氣に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなつす――。』と、口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其處此處の井戸端に起る趣味ある會話や、乃至此女性的なる都會に起る一切の秋の表現、――に就いて出來うる限り精細な記述をなすべき機會に逢着した。
が、自分は、其秋の盛岡に關する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底《てい》の突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此の記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを適切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ケ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。
實際を白状すると、自分が先刻晩餐を濟ましてから、少許《すこし》調査物《しらべもの》があるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十疊の奧座敷に立籠つて、餘り明《あか》からぬ五分心の洋燈《ランプ》の前に此筆を取上げたのは、實は、今日自分が偶然路上で出會《でくわ》した一事件――自分と何等の關係もないに不拘《かゝはらず》、自分の全思想を根柢から搖崩《ゆりくづ》した一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く/\忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此|稀有《けう》なる出來事に對する極度の熱心は、如何にして、何處で、此出來事に逢つたかといふ事を説明するために、實に如上數千言の不要《むだ》なる記述を試むるをさへ、敢て勞としなかつたのである。
斷つて置く、以下に書き記す處は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を讀む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》事を眞面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑《あざわら》ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出會《でくわ》した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁《かう》信じたからこそ、此市《こゝ》の名物の長澤屋の豆銀糖でお茶を飮み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談《むかしばなし》をする樂みをさへ擲ち去つて、明《あか》からぬ五分心の洋燈《ランプ》の前に、筆の澁りに汗ばみ乍ら此苦業を續けるのだ。
又斷つて置く、自分は既に此事件を以て親《みづか》ら出會《でくわ》した事件中の最大事件と信じ、其爲に二十幾年養ひ來つた全思想を根柢から搖崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭に立つた。――然《さう》だ、今自分の立つて居る處は、慥かに『原頭《げんとう》』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端《はし》を發見するに到るかも知れぬが、……否々《いや/\》、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼッタ石』の、表に刻まれた神聖文字《ハイエログリフ》は、如何にトマス・ヨングでもシャムポリヲンでも、プシウスでも、とても十年二十年に讀み了る事が出來ぬ樣に思はれる。
自分が今朝《けさ》新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名殘りの水潦《みづたまり》が路の處々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌《てのひら》程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空氣を岩山の上の秋陽《あきび》がホカ/\と温めて居た。
加賀野新小路の親縁《みより》の家では、市役所の衞生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麥煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず濕々《じめ/\》して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片《ひとひら》も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると
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