居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億萬年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁《ひら》いた樣な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の墮落は何でもないではないか。加之《しかのみならず》較々《やゝ》完全に近かつた雅典《アテーネ》の人間より、遙かに完全に遠《とほざ》かつた今の我々の方が、却つて/\大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、眞理よりも眞理を希求する心、完全よりも完全に對する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の靜けさ淋しさは愛するけれども、奈何《どう》して此三が一緒になつて三足《さんそく》揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜[#「雨ふる秋の夜」に傍点]といふ大きい鍋を頭から被《かぶ》る辛さ切なさを忍ぶことが出來よう。雨の夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の氣に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた爲めでがなあらう。
 昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り續いた。長火鉢を中に相對して、『新山堂の伯母さん』と前夜の續きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百《ぼんびやく》の話題を緯《ぬき》にして、話好《はなしずき》の伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の絲を經《たて》に入れる。此はてしない、蕭《しめ》やかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭《しめ》やかな空氣、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時《ひる》近くなつて、隣町の方から『豆腐《とうふ》ア』といふ、低い、呑氣な、永く尾を引張る呼聲が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にも全《まる》五年の間忘れ切つて居た『盛岡の聲』ではないか。此低い、呑氣な、尾を引張る處が乃ち、全く雨の盛岡式である。此聲が蕭やかな雨の音に漂うて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで來た。そして遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆聲《さびごゑ》で、矢張低く呑氣に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て氣が附かなかつたらしい。軈て、十二時を報ずるステーションの工場の汽笛が、シッポリ濡れた樣な唸りをあげる。と、此|市《まち》に天主教を少し許り響かせてゐる四家町《よつやちやう》の教會の鐘がガラン/\鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が傳はる。これは不來方《こずかた》城畔の鐘樓から、幾百年來同じ鯨音《おと》を陸奧《みちのく》の天《そら》に響かせて居る巨鐘の聲である。それが精確に十二の數を撞き終ると、今まであるかなきかに聞えて居た市民三萬の活動の響が、礑《はた》と許り止んだ。『盛岡』が今|今日《けふ》の晝飯を喰ふところである。
『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』
といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、
『浩さん、豆腐屋が來なかつたやうだつたね。』
 此伯母さんの一擧一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。
 朝行つた時には未《ま》だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い錢湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして泥汁《どろ》を撥《は》ね上げぬ樣に、極めて靜々と、一足毎に氣を配つて歩いて居るのだ。兩側の屋根、低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覺えて置いた女の、今は髮の結ひ方に氣をつける姉さんになつたのが、其處此處の門口に立つて、呆然《ぼんやり》往來を眺めて居る事もある。此等舊知の人は、決して先方から話かける事なく、目禮さへ爲《す》る事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を發揮して居る如く感ぜられて、仲々奧床しいのである。總じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆|克《よ》く雨に適して居る。人あり、來つて盛岡の街々を彷徨《さまよ》ふこと半日ならば、必ず何街《どこ》か理髮床の前に、銀杏髷《いてふまげ》に結つた丸顏の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手《そりて》と次の如き會話を交《まじ》ふるを聞くであらう。
 女『アノナハーン、アエヅダケァガナハーン、昨日《キノナ》スアレー、彼《ア》ノ人《シタ》アナーハン。』
 男『フンフン、御前《おめあ》ハンモ行《エツ》タケスカ。フン、眞《ホ》ニソダチナハン。アレガラナハン、家《エ》サ來ルヅギモ面白《オモシエ》ガタンチェ。ホリヤ/\、大變《テイヘン》ダタァンステァ。』
 此奇怪なる二人の問答には、少くとも
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