く、靜かに井戸に近《ちかづ》いた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この曉方の神々しい靜寂《しづけさ》を破る必要がなかつた。大きい花崗岩《みかげいし》の臺に載つた洗面盥には、見よ/\、溢れる許り盈々《なみ/\》と、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏として銀水の如く盛つてあるではないか。加之《のみならず》、此一面の明鏡は又、黄金の色のいと鮮かな一|片《ひら》の小扇さへ載せて居る。――すべて木の葉の中で、天《あま》が下の王妃の君とも稱《たた》ふべき公孫樹《いてふ》の葉、――新山堂の境内の天聳《あまそゝ》る母樹《はゝぎ》の枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり/\と舞ひ離れて來たものであらう。
 自分は唯恍として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて、魂《たましひ》無何有《むかう》の境に逍遙《さまよ》ふといふ心地ではない。謂はゞ、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る樣な心地だ。
 較々《やゝ》霎時《しばし》して、自分は徐ろに其一片の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴《ひとつ》二滴《ふたつ》の銀《しろがね》の雫を口の中に滴らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端《はし》に載せた。
 顏を洗つてから、可成《なるべく》音のせぬ樣に水を汲み上げて、盥の水を以前《もと》の如く清く盈々《なみ/\》として置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前《もと》の如くそれに浮べた。
 恁《かく》して自分は、云ふに云はれぬ或る清淨な滿足を、心一杯に感じたのであつた。
 起き出でた時よりは餘程明るくなつたが、まだ/\日の出るには程がある。家の中でも隣家《となり》でも、誰一人起きたものがない。自分は靜かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方《あちこち》と歩いて居た。
 だん/\進んで行くと、突當りの木槿垣《むくげがき》の下に、山の端《は》はなれた許りの大滿月位な、シッポリと露を帶びた雪白の玉菜《キャベーヂ》が、六個《むつ》七個《なゝつ》並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり實割れるばかり豐《ふくよ》かな趣きを見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。
 不圖、何か知ら人の近寄る樣なけはひがした。菜園滿地の露のひそめき乎? 否否、露に聲のある筈がない。と思つて眼を轉じた時、自分はひやり[#「ひやり」に傍点]と許り心を愕《おどろ》かした。そして、呼吸《いき》をひ
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