数多くあつたけれど、この一室中の人許りは誰一人微傷だもしなかつたと云ふ。汽車に乗つたから汽車衝突の話をするとは誠にうまい事と自分はひそかに考へた、そして又、衝突なり雪埋なり、何かしらこんどの旅行記を賑はすべき事件が、釧路まで行くうちに起つて呉れゝばよいがと、人に知らされぬ危険な事を思ふ。
 午前十一時四十分。車は動き出して、車窓の外に立つて居た日報社の人々が見えなくなつた。雪が降り出して居る。風さへ吹き出したのか、それとも汽車が風を起したのか、声なき鵞毛の幾千万片、卍巴と乱れ狂つて冷たい窓硝子を打つ。――其硝子一重の外を知らぬ気に、車内は暖炉《ストーブ》勢ひよく燃えて、冬の旅とは思へぬ暖かさ。東泉先生は其肥大の躯を白毛布の上にドシリと下して、心安げに本を見始める。先生に侍して、雪に埋れた北海道を横断する自分は宛然《さながら》腰巾着の如く、痩せて小さい躯を其横に据ゑて、衣嚢《かくし》から新聞を取出した。サテ太平無事な天下ではある。蔵逓両相が挂冠したといふ外に、広い世の中何一つ面白い事がない。
 窓越しに見る雪の海、深碧の面が際限もなく皺立つて、車輛を洗ふかと許り岸辺の岩に砕くる波の徂徠《ゆきき》、碧い海の声の白さは降る雪よりも美しい。朝里張碓《あさりはりうす》は斯くて後になつて、銭函《ぜにばこ》を過ぐれば石狩の平野である。
 午後一時二十分札幌に着いて、東泉先生は一人下車せられた。明日旭川で落合ふといふ約束なのである。降りしきる雪を透して、思出多き木立の都を眺めた。外国振《とつくにぷり》[#ルビの「とつくにぷり」はママ]のアカシヤ街も見えぬ。菩提樹の下に牛遊ぶ「大いなる田舎町」の趣きも見えぬ。降りに降る白昼《まひる》の雪の中に、我が愛する「詩人の市《まち》」は眠つて居る、※[#「闃」の「目」に代えて「自」、14−9]《げき》として声なく眠つて居る。不図気がつけば、車中の人は一層少くなつて居た。自分は此時初めて、何とはなく己が身の旅にある事を感じた。
 汽笛が鳴つて汽車はまた動き出した。札幌より彼方《むかう》は自分の未だ嘗《かつ》て足を入れた事のない所である。白石|厚別《あつべつ》を過ぎて次は野幌《のつぽろ》。睡眠不足で何かしら疲労を覚えて居る身は、名物の煉瓦餅を買ふ気にもなれぬ。江別も過ぎた。幌向《ほろむい》も過ぎた。上幌向の停車場の大時計は、午後の三時十六分を示して
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