たうち》した。『フム、また狐の真似|演《し》てらア!』
『オイ、お申婆《さるばあ》でねえか?』と、直ぐ再《また》大きい声を出した。恰度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四辺《あたり》を憚る様に答へた。『隣の兄哥《あにい》か? 早かつたなす。』
『早く帰《けえ》つて寝る事《こつ》た。恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんだ》時何処ウ徘徊《うろつ》くだべえ。天理様拝んで赤痢神が取付《とツつ》かねえだら、ハア、何で医者《いしや》薬《くすり》が要るものかよ。』
『何さ、ただ、お由|嬶《かかあ》に一寸用があるだで。』と、声を低めて対手《あひて》を宥《なだ》める様に言ふ。
『フム。』と言つた限《きり》で荷馬車は行過ぎた。
 お申婆《さるばばあ》は、軈《やが》て物静かに戸を開けて、お由の家に姿を隠して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。
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『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。
『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。
『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』
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 横川松太郎は、同じ県下でも遙《ずつ》と南の方の、田の多い、養蚕の盛んな、或村に生れた。生家《うち》はその村でも五本の指に数へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、体も孱弱《ひよわ》く、気も因循《ぐづ》で、学校に入つても、励むでもなく、怠《なまけ》るでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の学校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、恰度その頃、暴風《あらし》の様な勢で以て、天理教が付近一帯の村々に入込んで来た。
 或晩、気弱者のお安が平生《いつ》になく真剣になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の付くものは何でも嫌ひな旧弊家の、剰《おまけ》に名高い吝嗇家《しみつたれ》だつた作松は、仲々それに応じなかつたが、一月許り経つと、打つて変つた熱心な信者になつて、朝夕仏壇の前で誦《あ》げた修証義《しうしようぎ》が、「あ
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