『誰だい?』
と、渠は少許《すこし》気味の悪い様に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
『誰だい?』
 二度呼んでも返答《こたへ》が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
『ホホヽヽ。』
と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間|隔《へだた》つた粟の上に現れた。
『何ぞ、お常ツ子かい!』
『ホホヽヽ。』と再《また》笑つて、『先生様ア、お前様《めえさま》狐踊踊るづア、今夜《こんにや》俺《おら》と一緒に踊らねえすか? 今夜《こんにや》から盆だず。』
『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周囲を見廻した。
『なツす、先生様ア。』とお常は厭迄《あくまで》曇りのないクリクリした眼で調戯《からか》つてゐる。十五六の、色の黒い、晴やかな邪気無《あどけな》い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通行《とほ》る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯《からか》ふ。落花生《なんきんまめ》の殻を投げることもある。
 渠は不図、別な、全く別な、或る新しい生甲斐のある世界を、お常のクリクリした眼の中に発見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣《ひきつ》つた様な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。
 この事あつて以来、松太郎は妙に気がソワついて来て、暇さへあれば、ブラリと懐手《ふところで》をして畑径《はたけみち》を歩く様になつた。わが歩いてる径の彼方から白手拭が見える、と、渠《かれ》は既《も》うホクホク嬉しくてならぬ。知らんか振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯《からか》つて行き過ぎる。
『フフヽヽ。』
と恁《か》うマア、自分の威厳を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に帰ると例《いつ》になく食慾が進む。
 近所の人々とも親みがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何家《どこ》かへ振舞酒にでも招《よ》ばれると、密乎《こつそり》と娘を連れ込む事もある。娘の帰つた後、一人ニヤニヤと可厭《いや》な笑方をして、炉端に胡坐《あぐら》をかいてると、屹度、お由がグデングデンに酔払つて、対手なしに悪言《あくたい》を吐《つ》き乍ら帰つて来る。
『何だ此畜生《こんちきしやう》奴《め》、汝《うぬ》ア何故《なんしや》此家《ここ》に居る? ウン此
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