ゑ》でも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬ態《さま》をしてるのは、干からびた塩鱒《しほびき》の頭を引擦つて行く地種《ぢだね》の痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日向《ひなた》で呟呻《あくび》をしてゐる真黒な猫、往還の中央《まんなか》で媾《つる》んでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩剣《はいけん》の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。
 鼻を刺す石炭酸の臭気《にほひ》が、何処となく底冷《そこびえ》のする空気に混じて、家々の軒下には夥《おびただ》しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲来を蒙《かうむ》つた山間《やまなか》の荒村《あれむら》の、重い恐怖と心痛《そこびえ》に充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態《ありさま》は、一度その境を実見したんで無ければ、迚《とて》も想像も及ぶまい。平常《ひごろ》から、住民の衣、食、住――その生活全体を根本《ねつ》から改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫《やまひ》が猖獗《しやうけつ》を極めた時、所轄警察署の当時《とき》の署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行つた事がある。お蔭で他村には伝播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々|何《ど》の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隠蔽して置いて※[#「特のへん+尨」、298−下−8]牛児《げんのしようこ》の煎薬でも服ませると、何時しか癒つて、格別伝染もしない。それが、万一医師にかゝつて隔離病舎に収容され、巡査が家毎に怒鳴つて歩くとなると、噂の拡《ひろが》ると共に疫が忽ち村中に流行して来る――と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方が忌《きら》はれる。初発患者が発見《みつか》つてから、二月足らずの間《うち》に、隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家《ひとつや》を借り上げ、それも満員といふ形勢《すがた》で、総人口四百内外の中、初発以来の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果で復《また》二名増えた。戸数の七割五分は何《ど》の家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入つた。
 秋も既《も》う末
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