人の思想、文学、美術、学芸、制度、風気の凡《すべ》てをして其存在の意義を世界文化史上に求めむが為めに、之が助長的動力として要する所の政治者は固より内隠忍外|倨傲《きよがう》然《しか》も事に当りて甚だ小胆なる太郎内閣に非ず、果《は》たかの伊藤や大隈や松方や山県に非ずして、実に時勢を洞観する一大理想的天才[#「一大理想的天才」に丸傍点]ならざる可からず候。一例をあぐれば、其名|独逸《ドイツ》建国の歴史を統《す》ぶる巨人ビスマルクの如きに候ふ可《べ》く、普仏戦争に際して、非常の声誉と、莫大の償金と、アルサス、ローレンスと、烈火の如き仏人の怨恨とを担《にな》ふて、伯林《ベルリン》城下に雷霆《らいてい》の凱歌《がいか》を揚げたる新独逸《ヨングドイチエ》を導きて、敗れたる国の文明果して劣れるか、勝たる国の文明果して優れるかと叫べるニイチエの大警告に恥ぢざる底の発達を今日に残し得たる彼の偉業は、彼を思ふ毎に思はず吾人をして讃嘆せしむる所に候はずや。鳴呼《ああ》今や我が新日本は、時を変へ、所を変へ、人種を変へて、東洋の、否世界の、一大普仏戦争に臨み、遠からずして独逸以上の光栄と、猜疑と、怨恨と、報酬とを千代田城下に担ひ来らむとす。而《しか》も吾人はこの難関に立たしむべき一人のビ公を有し候ふや否や。あらず、彼を生み出したる独逸の国民的自覚と、民族的理想と自由の精気と堅忍進取の覚悟の萌芽を四千余万の頭脳より搾出《さくしゆつ》し得べきや否や。勝敗真に時の運とせば、吾人は、トルストイを有し、ゴルキイを有し、アレキセーフを有し、ウヰツテを有する戦敗国の文明に対して何等|後《しり》へに瞠若《だうじやく》たるの点なきや否や。果《は》た又、我が父祖の国をして屈辱の平和より脱せむが為めに再び正義の名を借りて干戈《かんくわ》を動かさしむるの時に立ち至らざるや否や。書して茲《ここ》に至り吾人は実に悵然《ちやうぜん》として転《うた》た大息を禁ずる能はざる者に候。鳴呼《ああ》今の時、今の社会に於て、大器を呼び天才を求むるの愚は、蓋《けだ》し街頭の砂塵より緑玉《エメラルド》を拾はむとするよりも甚しき事と存候。吾人は我が国民意識の最高調の中に、全一の調和に基ける文化の根本的発達の希望と、愛と意志の人生に於ける意義を拡充したる民族的理想の、一日も早く鬱勃《うつぼつ》として現はれ来らむ事を祈るの外に、殆《ほと》んど為す所を知らざる者に御座候。
[#地から1字上げ](四月廿五日夜)
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
四月二十六日午後一時。
夜来の春雨猶止まずして一山風静かに、窓前の柳松《りうしよう》翠色《すゐしよく》更に新たなるを覚え、空廊に響く滴水の音、濡羽をふるふ鶯の声に和して、艶だちたる幽奥の姿誠に心地よく候。この雨収まらば、杜陵は万色一時に発《ひら》く黄金幻境に変ず可くと被存候《ぞんぜられさふらふ》。
今日は十時頃に朝餐を了へて、(小生の経験によれば朝寝を嫌ひな人に、話せる男は少なき者に御座候呵々)二時間許り愛国詩人キヨルネルが事を繙読《ほんどく》して痛くも心を躍らせ申候。張り詰めたる胸の動悸今猶静め兼ね候。抑々《そもそも》人類の「愛」は、万有の生命は同一なりてふ根本思想の直覚的意識にして、全能なる神威の尤《もつと》も円満なる表現とも申す可く、人生の諸有《あらゆる》経緯の根底に於て終始永劫普遍の心的基礎に有之候《これありさうら》へば、国家若しくは民族に対する愛も、世の道学先生の言ふが如き没理想的消極的理窟的の者には無之《これなく》、実に同一生命の発達に於ける親和協同の血族的因縁に始まり、最後の大調和の理想に対する精進の観念に終る所の、人間凡通の本然性情に外ならず候。熱情詩人、我がキヨルネルの如きは、この沈雄なる愛国の精神を体現して、其光輝|長《とこしな》へに有情の人を照らすの偉人と被存候。
時は千八百十三年、モスコーの一敗辛くも巴里《パリ》に遁れ帰りたる大奈翁《だいなをう》に対し、普帝が自由と光栄の義戦を起すべく、三月十七日、大詔一下して軍を国内に徴するや、我がキヨルネルは即日[#「即日」に丸傍点]筆を擲《なげう》つて旗鼓の間に愛国の歩調を合し候ひき。彼は祖国の使命を以て絶大なる神権の告勅《こくちよく》を実現するにありとしたり。されば彼に於ては祖国の理想と自由の為めに、尊厳なる健闘の人たるは実に其生存の最高の意義、信念なりき。彼|乃《すなは》ち絶叫して曰く、人生に於ける最大の幸福の星は今や我生命の上に輝きたり。あゝ祖国の自由のために努力せむには如何なる犠牲と雖《いへ》ども豈《あに》尊としとすべけむや。力は限りなく我胸に湧きぬ。さらば起たむ、この力ある身と肉を陣頭の戦渦に曝《さら》さむ、可ならずや、と。斯《かく》の如くして彼は、帝室劇詩人の栄職を捨て、父
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